◇2018年度 第1回 日本比較文学会 北海道研究会プログラム

2018年10月15日公開

  • 日時 2018年11月24日(土)14:30開会
  • 会場 北海学園大学6号館C31教室




〈開会の辞〉          テレングト・アイトル(北海学園大学

■研究発表 14:30-16:00
瀧口修造における〈オートマティスム
 
秋元裕子(北海学園大学非常勤講師)
司会 平野葵(北海道大学大学院博士後期課程)


序説 谷川俊太郎とポップ・アート

中村三春(北海道大学
司会 飛ヶ谷美穂子日本比較文学会理事)

<休憩>

■〈比較文学比較文化 名著読解講座 第16回〉16:15-17:15
多和田葉子著『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』(岩波書店、2003年)
袁嘉孜(北海道大学大学院博士後期課程)
司会 齊田春菜(北海道大学大学院博士後期課程)
〈閉会の辞〉         日本比較文学会北海道支部長 中村三春(北海道大学

→発表要旨は「続きを読む」をクリック
【発表要旨】

〈研究発表〉
瀧口修造における〈オートマティスム
秋元裕子(北海学園大学非常勤講師)
 瀧口修造における〈オートマティスム〉について、「『無意識』の自動的な働きを通して、『物質の真実性』=『一層高いレアリテ』を見出そうとする」心の働きであり、(鄯)自然の物体によって触発されて、(鄱)芸術創作の上での身体の動きによって、(鄴)自然現象(雨・雪・雲・風などの動きと形の変化)によって活性化されて、自動的に働き始めることを、筆者は既に明らかにした(秋元裕子「瀧口修造における影像の諸相」『北海学園大学人文論集』第61号、2016年8月)。一方、瀧口自身がその〈オートマティスム〉について深く披瀝したのは、次の引用である。「私自身の内部には、このオートマティスムという認識を普遍的な鍵として考える傾向がいつしか根を張っているのに気付きます。それは前提として想像力やイメージを喚起するための方法ではありません。このほとんど(略・引用者)表出することの不可能に近い、しかし存在する心の自動性が、自然の物理や化学にも存在している」(瀧口修造・粟津則雄往復書簡、初出『思潮』1970年9月、引用『コレクション・瀧口修造(一)』みすず書房、1991年、468頁)。これをどのように理解すればいいのか。
 本発表では瀧口における「一層高いレアリテ」に至るまでの心の働きそのものについて、二本の補助線を引きつつ考えを深めてみたい。
 一本目の補助線として、瀧口が慶應義塾大学文学部時代に学んだ英文学から、英国の詩人コールリッジ(1772〜1834)の「IMAGINATION」についての考えを検証する。瀧口自身が、コールリッジによる「IMAGINATION」の定義を翻訳・紹介している(瀧口修造「浪漫主義と超現実主義」『純粋詩』第1号、1937年)ことを鑑みて、コールリッジに共感し、そこから刺激・着想を得ていたことは疑いない。
 二本目は、現象学バシュラール(1884〜1962)の〈詩的夢想〉である。直接的な影響関係は、明かには認められないにしても、「眺められた世界と夢想によって再創造された世界の弁証法を絶対にまでおしすすめる」(バシュラール著・及川馥訳『夢想の詩学思潮社、1976年、243頁)さまを作品において読み取り、外的世界と内的世界との関係性について、特にその晩年現象学的記述に没頭したバシュラールの著述を参考にして、瀧口の〈オートマティスム〉の理解を深めたい。

序説 谷川俊太郎とポップ・アート
中村三春(北海道大学
 マルセル・デュシャンが男性用小便器に「泉」(Fountain、「噴水」という訳も考案されている)という題名を付してアメリカ独立美術家協会に送りつけたのは1917年4月のことである。こうして拓かれたレディメイド(ready-made、既製品)というジャンルは、20世紀を通じて、いわゆる流用(appropriation)に基づいた制作を本質とする様々な芸術潮流に受け継がれた。文芸もまたその例外ではない。
 『二十億光年の孤独』(1952)で登場し、『六十二のソネット』(1953)ではその原質としての形而上的な構成主義を確立した谷川俊太郎の詩作はその後多彩な展開を見せるが、その中でも〈詩の条件〉自体を詩の中で追究する詩集を点々と発表している。既に『定義』(1975)は百科事典のパロディとして詩集を構築し、その冒頭の詩「メートル原器に関する引用」は『世界大百科事典』(平凡社)からの引用であった。この引用による詩の構築とそこにおける〈詩の条件〉の探索を全面化したのが、その名も『日本語のカタログ』(1984)である。冒頭に置かれたタイトル作品は、催馬楽から白秋編童謡集までの、出典を明記した21の〈レディメイド〉の引用から成っている。別の詩「彼のプログラム」に、「問題は『詩的なるもの』と『詩』との関連のさせかただ」とする構想の示唆が見られ、さらに、「画廊にて」には、アンディ・ウォーホルへの引喩が置かれる(「アンディ/殺されそこなったアンディ」)。
 この詩集は、「畸形」に関する百科事典の頁などの写真版、余白に押された足型(文字通りの footprint)、沢野ひとしの絵と組み合わせられた詩「玄関に若い女のひとが……」、前出「彼のプログラム」や散文詩の可能性について語る「散文詩」などのメタ詩、「K・mに」や「女への手紙」などのメッセージ形式の詩、「うぇーべるん」という言葉と人とをめぐる断章集や、「柏崎玲(事務員)」など5人の人物に触れて語る「人達」などの一見雑多な詩が雑然と輯(あつ)められ、最後はいろは形式のアフォリズム集「いろは練習」で閉じられる。この詩集はいったい何なのか。
 本発表は、ポップ・アートなどの流用アートの観点から、ネルソン・グッドマン『世界制作の方法』(1978)の「いつ芸術なのか」を問うた詩人として、谷川を再評価する試みである。

比較文学比較文化 名著読解講座 第16回〉
多和田葉子著『エクソフォニー 母語の外へ出る旅』(岩波書店、2003年)
袁嘉孜(北海道大学大学院博士後期課程)
 エクソフォニーとは、「母語の外へ出た状態一般を指す」。多和田葉子は、この作品の中で、A語でもB語でも書く作家、つまり境界を越える作家になりたいというわけではなく、A語とB語の間に詩的な峡谷を見つけて、その境界の住人になりたいのだと言った。言い換えれば、多和田にとってのエクソフォニーは、母語の外へ出てある一つの外国語の中にいるというより、両言語の間にいる状態と言ってもいいだろう。このような両言語の間で生きる姿勢が、多和田葉子の作品の基盤となる。
 この作品は、主に第一部「母語の外へ出る旅」と第二部「実践編 ドイツ語の冒険」との二つの部分によって構成される。本発表は、まず多和田葉子が自らの体験に基づいて、いかに言語をめぐって語っているのかを検討し、その中で、どのように「世界」と「言葉」と「私たち」を考えているのかを明らかにする。次に、それを具体的にどのようにドイツ語の冒険で実践するのかを考察したうえで、エクソフォニーの概念を求める帰結を探ってみたい。