◇2018年度第2回日本比較文学会北海道研究会プログラム

  • 日時 2019年3月30日(土)14:00開会(13:30より受付)
  • 会場 藤女子大学北16条キャンパス 新館374教室

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〈開会の辞〉          種田 和加子(藤女子大学

■研究発表 14:00-16:15
夏目漱石「薤露行」論―「連想」の「生成変化」と〈象徴〉の〈星座〉的配置―
 
辻川 健悟(北海道大学大学院修士課程)
司会 秋元 裕子(北海学園大学非常勤講師)


太宰治『惜別』におけるキリスト教―民衆、革命の問題をめぐって―

唐 雪
司会 井上 貴翔(北海道医療大学


カズオ・イシグロマルセル・プルースト―『浮世の画家』における〈時間〉と〈記憶〉の位相をめぐって―

飛ヶ谷 美穂子
司会  村田 裕和(北海道教育大学
<休憩>

■〈比較文学比較文化 名著読解講座 第17回〉16:20-17:20
川崎賢子著『尾崎翠 砂丘の彼方へ』(岩波書店、2010年)
齊田 春菜(北海道大学大学院博士後期課程)
司会 袁 嘉孜(北海道大学大学院博士後期課程)
〈閉会の辞〉        日本比較文学会北海道支部長 中村 三春(北海道大学

〈臨時総会〉17:25-

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【発表要旨】

〈研究発表〉
夏目漱石「薤露行」論―「連想」の「生成変化」と〈象徴〉の〈星座〉的配置―辻川 健悟(北海道大学大学院修士課程)
 夏目漱石による初期短編作品、「薤露行」はとある一つの論争をよんだ。1975年9月に発表された江藤淳夏目漱石アーサー王傳説』(東京大学出版会)と、それに対する大岡昇平による一連の論駁である。大岡の死後、江藤の反論によって終わっているこの一連の論争は、「薤露行」というテクストにおける、ある一つの〈象徴〉的な性質を示している。
 それが「薤露行」における、まさに〈象徴〉の問題である。「薔薇」や「白鳥」、そして、エレーンやアーサーといった登場人物など、数多く散りばめられた〈象徴〉群がテクストに布置されることによって、「薤露行」というテクストは豊穣な解釈を生み出すことになり、ときには江藤と大岡のような論争を呼び込むことになった。
 さらに、その〈象徴〉性は比較文学的な読みを誘発し、マロリーやテニソンといった、典拠であろうと推定されるテクストと比較する読みが数多くなされてきたが、「薤露行」という、テクストそれ自体に対する解釈の試みや、漱石の創作理論である「彽徊趣味」が生み出す「連想」という効果との関連で捉えられることは多くなかった。
 そこで本発表では、江藤と大岡の一連の論争がどのような意味を持っているのか、テクスト解釈にどのように寄与するのかということから出発し、「薤露行」が、マロリーやテニソンの描いた「アーサー王伝説」を単に模倣した作品ではないことを示し、テクストそれ自体が数多く持っている〈象徴〉性がどのように機能しているかということや、「彽徊趣味」がどのように生かされているのかということを、ウンベルト・エーコガストン・バシュラールといった思想家・理論家が提唱した文学理論・思想を用いて、これまでの「薤露行」論が見落としてきた、〈象徴〉や「連想」の機能を炙り出すことで、これからの「薤露行」論に向けて、新たな視座を与えることを目指す。

太宰治『惜別』におけるキリスト教―民衆、革命の問題をめぐって―唐 雪
 『惜別』(1945・9、朝日新聞社)は発表当初から長い間、皇国賛美など時流迎合の言説が顕在化した作品とみなされ、国策小説として否定的にのみ論じられた作品である。竹内好という中国文学、魯迅研究者の権威によって確立された『惜別』の評価軸が確固としたものになった状況の中、『惜別』の再評価に大きく貢献したのは権錫永と藤井省三の研究である。
 権は作中人物の言葉と表現を綿密に分析し、『惜別』に時流に迎合する「時代的言説」と、ほかならぬその「時代的言説」を巧みに利用することで時流批判を含意する「非時代的言説」との同時存在を見出し、『惜別』の戦時文学としての特殊性を指摘した(「〈時代的言説〉と〈非時代的言説〉―『惜別』―」(『国語国文研究』96、1994・9)。
 他方において、藤井は実在の魯迅の人物像の特徴を押さえた「一種のすぐれた初期の魯迅論」として『惜別』を高く評価する(「太宰治の『惜別』と竹内好の『魯迅』」(『国文学解釈と教材の研究』、2002・12)。
 ところで、『惜別』の作中には矢島をはじめとするクリスチャンの学生が登場し、『旧約聖書』の「出エジプト記」をめぐる「私」と「周さん」の議論があるなど、キリスト教と聖書への言及が大きな比重を占めている。「周さん」が「出エジプト記」から読み取ったのは民衆に苦しめられるモーセの苦心である。『聖書』を経由して民衆に注目したことに、太宰の独自かつ正確な魯迅理解があるように考えられる。なぜなら、民衆の問題こそ、魯迅が深く思考し、生涯を通じて取り組んだ課題なのである。
 本発表は先行研究でほとんど注目されてこなかった作中におけるキリスト教と聖書、民衆と革命の問題に焦点を当て、『惜別』の再評価、特に魯迅像の再検討を試みるものである。

カズオ・イシグロマルセル・プルースト
―『浮世の画家』における〈時間〉と〈記憶〉の位相をめぐって―
飛ヶ谷 美穂子
 処女作『遠い山なみの光A Pale View of Hills (1982)から近作『忘れられた巨人The Buried Giant (2015)にいたるまで、カズオ・イシグロの作品においては、つねに〈時間〉と〈記憶〉とが、その主題と構造をかたちづくる重要な要素となっている。複数の時間軸が交錯し輻輳する中で、登場人物の記憶は次第にゆらぎ出し、やがて意識的/無意識的に封じ込められていた記憶の過誤や欠落が浮かび上がってくる。彼の作品に、『日の名残りThe Remains of the Day (1989)の老執事スティーヴンスに代表されるような「信頼できない語り手」がしばしば登場するのも、こうした〈記憶〉のメカニズムそのものに対する関心と思索の結果といえよう。
 こうした表現手法について、イシグロ自身はこれまでさまざまな機会に、プルースト失われた時を求めて』の影響を認める旨の発言を重ねており、ノーベル文学賞受賞記念講演(2017)でも、『遠い山なみの光』刊行後まもない1983年春にプルーストを読んで影響を受けたと述べている。この言葉からみて、当時執筆にとりかかっていた長篇第二作『浮世の画家An Artist of the Floating World (1986)には、プルースト体験が最も直截に反映していると思われる。じっさい、2016年にフェイバー社が『浮世の画家』刊行三十周年記念として新装版を出版したさい、イシグロは自序を寄せているが、そのなかにもプルーストについて同様の記述がみられるのである。
 この小説は、語り手である老画家の数十年にわたる記憶と自己認識が、終戦後の現実に否応なく直面し衝突して、一見おだやかな日常のなかに、混乱と齟齬と啓示を点じる過程を、重層的な〈時間〉の中に描き出している。
 今回の発表では、イシグロが読んだと思われる英訳版『失われた時を求めて』と『浮世の画家』について、〈時間〉と〈記憶〉の位相がどのように扱われているかという視点から分析し、さらにイシグロの初期短篇と『浮世の画家』の差異を検討することによって、プルースト体験の意味を考察する。それにより、カズオ・イシグロという作家の独自性の一端をあきらかにしたいと考えている。

比較文学比較文化 名著読解講座 第17回〉
川崎賢子著『尾崎翠 砂丘の彼方へ』(岩波書店、2010年)齊田 春菜(北海道大学大学院博士後期課程)
 本書で川崎賢子は「尾崎翠テキストを概括するなら、映画にたいする関心、モダン都市の若者文化や単身者の生態を題材にしたこと、進化論・遺伝学・精神分析・心理学などの尖端的な科学的な知にかんする造詣の深さとスリリングな好奇心の躍動とそれらの知的意匠の自在な文学的変形、パロディ、パスティーシュ(文体模倣)、デフォルメ、モンタージュなどの実験的な技法、斬新な比喩表現など、どれも時代に先駆けたモダニズム表現の成果である」(『尾崎翠 砂丘の彼方へ』15頁)とまとめる。
 この概括からも理解できるように本書は、比較文学研究の方法に重点をおいた研究書ではない。しかし五章だての各章のなかで何らかの形で尾崎翠(作品)と海外文学や文学者についての記述がなされている。また尾崎翠と翻訳、海外文学の受容についてはいくつかの先行研究がある。さらに近年、尾崎翠と関係の深いウィリアム・シャープ(フィオナ・マクラウド)の短編が20作程中野善夫訳で『夢のウラド F・マクラウド/W・シャープ幻想小説集』(2018年2月、国書刊行会)として刊行された。以上のように尾崎翠比較文学研究の観点から考察していく環境は整いつつあるように思われる。
 ところで、尾崎翠はポーの「モレラ」(Morella, 1835)を翻訳作品として1930年1月号の『女人芸術』に発表した。この尾崎翠の翻訳は先行研究が指摘しているように尾崎翠らしい訳語がある(小澤英実「悪い薬の副作用 尾崎翠と海外文学」、『尾崎翠』、河出書房新社、2009年6月)。
 今回の読解講座では、尾崎翠研究に関する重要な本書を軸に近年の尾崎翠研究と関係ある比較文学研究や翻訳研究についていくつかの先行研究を踏まえ考察を試みる。その際、尾崎翠「モレラ」を例としてこれらのテーマについて検討を試みる読解講座としたい。

尾崎翠 砂丘の彼方へ

尾崎翠 砂丘の彼方へ