◇2019年度 日本比較文学会 北海道大会プログラム

  • 日時 2019年11月30日(土)13:00開会(12:30より受付)
  • 会場 北海学園大学 7号館 D31教室

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〈開会の辞〉          テレングト・アイトル(北海学園大学

■研究発表 13:05-16:15
吉川英治「日本名婦伝 細川ガラシヤ夫人」論―切支丹の信仰と「性の問題」―
 
西岡 沙都美(北海道大学大学院文学院)
司会 齊田 春菜(北海道大学大学院文学院)


演じられる恋愛―有島武郎『宣言』論―

中村 建(北海道大学大学院文学院)
司会 横田 肇(星槎道都大学


谷川俊太郎における「私」―海外文化との交点において―

中村 三春(北海道大学
司会 秋元 裕子(北海学園大学非常勤講師)


カズオ・イシグロマルセル・プルースト(2)―ハロルド・ピンターとのかかわりを軸として―

飛ヶ谷 美穂子
司会 種田 和加子(藤女子大学
<休憩>

■講演 16:30-17:45
「世界文学」論の時代の日本文学―「世界」概念とその表象の変遷を追って―
講師 坂口 周(福岡女子大学
司会 井上 貴翔(北海道医療大学 ※司会者に変更がありました)

〈閉会の辞〉        日本比較文学会北海道支部長 中村 三春(北海道大学

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【発表要旨】

〈研究発表〉
吉川英治「日本名婦伝 細川ガラシヤ夫人」論―切支丹の信仰と「性の問題」―西岡 沙都美(北海道大学大学院文学院)
 一九三五年から連載された伝記的時代小説『宮本武蔵』は、吉川英治の名を国民作家として認識させる契機となった。この作品は「宮本武蔵」を扱った伝記的時代小説であり連載中から人気を博した。佐藤忠男は「歴史・時代小説と映画・演劇」(『国文学 解釈と鑑賞』一九七九年三月号)において、『宮本武蔵』を「旧来の講談本的英雄豪傑物語と、西洋騎士道物語的ロマンチシズムの二つの方向に引き裂かれた作品」と分析する。これまでの先行研究では吉川の作品は「自己形成小説」として捉えられてきたが、それは「西洋」的な境地と「講談本」的境地の境界でなされているものとして考えられるのである。こうした特徴は、『宮本武蔵』だけでなく、吉川の伝記的時代小説全般に表れるものであると考える。
 明治以降の小説に表れる「西洋」的な観点について言及する時、欠かす事が出来ないのがキリスト教の存在である。歴史・時代小説においてはキリスト教は切支丹の信仰という形で表されることが多くある。岡本綺堂野村胡堂国枝史郎などの作品においては切支丹や信仰について扱った作品が散見しており、時代小説におけるキリスト教について研究する上で切支丹は無視することはできない。吉川英治の作品の中で、切支丹の信仰を扱った作品として一九四〇年七月に雑誌『主婦之友』に掲載された「日本名婦伝 細川ガラシヤ夫人」をあげることができる。
 「日本名婦伝 細川ガラシヤ夫人」では、作品の最中でガラシャキリスト教徒となり、その信仰が死後にまで残っていることが示唆される。また、作品においては、ガラシャとその夫、細川忠興との関係が重視されている。吉川は「美しい日本の歴史」などの作品でカソリックの信仰と性の問題について言及を行なっており、信仰と性について関心を寄せていた。本作品における細川忠興ガラシャの夫婦関係と信仰の問題はこれと関わるものであり、論考していく必要があると考える。発表においては、吉川の述べる「性の関係」と信仰とがどのように関わり、本作の切支丹表象が行われているのかについて、明らかにしていきたい。

演じられる恋愛―有島武郎『宣言』論―中村 建(北海道大学大学院文学院)
 有島武郎の書翰体小説『宣言』(1917)は、夏目漱石こゝろ』(1914)、武者小路実篤『友情』(1920)などと並んで、大正期を代表する恋愛の三角関係を描いた小説である。本作ではY子を一目見て好きになったAが友人のBに相談する所から始まり、Bの助力によりAはY子と婚約するも、Bへの愛を自覚したY子により破談となって物語は終わる。多くの先行研究では、Aの理想主義的な恋愛が批判される一方、Bが恋愛勝利者、Y子が真の愛に「覚醒」したとの評価がなされている。しかし、ルネ・ジラールの言う「欲望の三角形」を踏まえると、これらの人物の恋愛は模倣されたものであって、誰が正しい/間違いなどと言うことは出来ず、またテクストそのものではなく人物論に留まっている嫌いがある。
 ところで、『宣言』ではBがY子と一緒に読むモーリス・メーテルリンクの『アグラヴェーンとセリセット』(1896)を始めとしてリヒャルト・シュトラウス『薔薇の騎士』(1911)、フリードリヒ・フォン・シラー『たくらみと恋』(1784)といった恋愛を題材とした西欧の戯曲やオペラが引き合いに出され、登場人物の恋愛と重ね合わされている。そして、本作の舞台かつ発表された明治末期~大正初期は、越智治雄(『明治大正の劇文学』1971、塙書房)が指摘しているように、青年がメーテルリンクを始めとする「演劇に大きな夢を抱いていた」時代であり、実際に有島も含め、多くの作家によって戯曲が発表されていた。前述の引用はそのような時代背景を象徴しており、同時に有島の戯曲への関心を示すものであると思われるが、従来この点については余り指摘されてこなかった。
 本発表ではこのことを踏まえた上で、西欧の戯曲やオペラが引き合いに出されている効果について検討しつつ、書翰体小説特有の問題にも留意しながら、西欧の近代的な恋愛観が日本に入り込みつつあった時代を舞台とする、『宣言』における恋愛の模倣の過程を明らかにしようとするものである。

谷川俊太郎における「私」―海外文化との交点において―中村 三春(北海道大学
 2007年、76歳の谷川俊太郎は詩集『私』(2007.11、思潮社)を刊行し、「自己紹介」と題して「私は背の低い禿頭の老人です/もう半世紀以上のあいだ/名詞や動詞や助詞や形容詞や疑問符など/言葉どもに揉まれながら暮らしてきましたから/どちらかと言うと無言を好みます」と詠った。例によって、「無言を好みます」などと饒舌に書き込むこの詩人は、しかし、1970年代には、「詩イコール自己表現という固定観念は、それはそれで一面の真実をいいあててはいるけれど、詩がそれで説明されつくしたと見ることができぬのはいうまでもない」と語り、「詩は近代詩にかたよることなく、わらべうたやことわざ、早口言葉やなぞなぞ、民話や民謡などの基盤に足をふまえて教えられるべきだろうと思う」として、「私」を表現する詩の伝統を執拗に相対化しようとしていた(「詩・散文・現実」、『教室の窓』1973.3)。詩集『私』に至っても、たとえば「『私』に会いに」では、母によって生まれた私と、言語によって生まれた「私」を区別する。谷川にとって、詩における「私」の追求は、重要なライフ・ワークとしてあったのである。このように見るとき、70年代終盤の段階で、既に「私と私自身のずれ」を谷川詩の核心としてとらえた三浦雅士『私という現象』(1981)の慧眼には一目を置かざるを得ない。
 ただし、その「私」追求の道程は単純な沈思黙考の中で行われたのではない。谷川は、『マザー・グースのうた』全5巻や、レオ・レオニの絵本シリーズなど多数の翻訳をも手掛け、また『モーツァルトを聴く人』(1995)、『クレーの絵本』(1995)、『クレーの天使』(2000)など、海外の音楽や絵画に寄せた作品を多数制作した。谷川における海外文化の存在は、その「私」にとって何であったのか。論者の前稿「谷川俊太郎と〈流用アート〉序説―『定義』『コカコーラ・レッスン』『日本語のカタログ』など―」(『北海道大学文学院紀要』158 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/75217)を踏まえて、この問題への展望を示したい。

カズオ・イシグロマルセル・プルースト(2)―ハロルド・ピンターとのかかわりを軸として―飛ヶ谷 美穂子
 英国の劇作家ハロルド・ピンターHarold Pinter(1930-2008)は、若くして「不条理演劇の大家」と称され、二十世紀後半で最も重要な作家の一人である。2005年に「劇作において、日常のなにげない会話にひそむ危機を露わにし、抑圧の密室に突破口をひらいた」としてノーベル文学賞を受賞、日本でも早くから小田島雄志・喜志哲雄・沼澤洽治らによる翻訳や舞台上演がさかんに行われてきた。俳優・演出家・詩人としても活躍したほか、映画やテレビの脚本家としても名高く、ことに映画監督ジョゼフ・ローシーJoseph Losey(1909-1984)と共同制作した『召使』The Servant (1963)『できごと』Accident(1967)『恋』The Go-Between(1970)の3作は、視点人物の〈語り〉を通して〈時間〉と〈記憶〉のゆらぎを描き出す斬新な手法とその芸術性が高く評価された。ローシーは1972年春に『失われた時を求めて』映画化の企画を受けて、盟友ピンターに脚本を依頼、約一年後に決定稿が完成したが、資金難により計画は頓挫した。ピンターは脚本をThe Proust Screenplay と題して1977-78年にアメリカと英国で出版した。1997年この脚本をもとにダイ・トレヴィス脚色演出による舞台が試演され、さらにピンター自身も参加して共同脚色による戯曲Remembrance of Things Pastに仕立て、2000年11月国立劇場で上演したところ大好評を博し、翌年春までロングランを続けた。この台本も初演後まもなく書籍化されている。
 カズオ・イシグロKazuo Ishiguro(1954-)がノーベル文学賞を受賞したさい、選考委員会はその作品にプルーストの匂いがあることを指摘した。イシグロ自身は「1983年春に病臥中『失われた時を求めて』の序章を読み返すうちに新しい小説の構成方法が目の前にひらけた」と語っているが、今回の発表では、イシグロのプルースト受容にピンターの存在がかかわっていた可能性を検証する。資料の収集分析により、若き日のイシグロが出版社や劇場・メディア・映画など活動の場の多くをピンターと共有しており、互いの仕事はつねに視野に入っていたこと、さらにピンターがイシグロ作品に関心を示し、一時期両者のあいだに重要な交流が存在したことをあきらかにする。なお時間が許せば、巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督Luchino Visconti(1906-76)が遺した『失われた時を求めて』のシナリオについて、イシグロやピンターのプルースト受容と対比しつつ紹介したい。

〈講演〉
「世界文学」論の時代の日本文学―「世界」概念とその表象の変遷を追って―坂口 周(福岡女子大学
 近年、「日本近現代文学における〈世界〉概念の変遷」という題目に取り組んでいる。「文学」と「世界」を並べれば、誰もが真っ先に「世界文学」を想像する。日本で「世界文学」論が出て来たのは比較的古く19世紀末だが、狭い文壇を越えた流行は1930年代前半である。戦後は、対抗の「国民文学」論を生み出す土壌となった近代主義者による「世界文学」言説の流行から、最近のダムロッシュやモレッティなど海外の研究成果の流通まで、盛り上がりの大小はあっても話題は継続してきた。その「世界」概念を通して文学の様式変遷を論じることができないかと考えたのが発想の端緒である。
 ほとんどの「世界文学」論の「世界」は地理的な拡がり(政治・経済の対象)を意味していて、一種の多文化主義論である。しかし文学においては、「私」の主観的認識の拡がりを表す意味での「世界」(哲学・心理学の対象)が決定的に重要である。そもそも近代小説は、グローバルな「世界」意識が形成される時代に、その「世界」を普遍的な人間(語り手)の主観性によって空間的に〈閉じ込め〉可能な表現形式として隆盛した。地政学的な「世界」意識と虚構「世界」との連動を根拠にして、学問領域を横断する統一理論的な概念として「世界」を扱い、逆に文学史を意味づけ直す可能性が開けてくる。
 しかし本講演での網羅的な考察は不可能なので、まずは議論の基礎付けとして、以上の〈グローバルな空間〉と〈主観の拡がり〉の二つの「世界」の意味の重複が19世紀始めに生じた点を指摘したハイデガーの『世界像の時代』(1938)を〈小説論〉として読み直すことを切り口とする。次いで日本語訳の出版(1962)と同年に鶴見俊輔が書いた世界文学論の分析から、戦後の「世界」概念が変容を来していた状況を確認する。その上で、80年代文学による「世界」の語の濫用や、また遡って19世紀末(映画の登場)以降の個別の文学的事象を「世界」の文脈に置き直してみるなど、「世界」の理論的汎用性を可能な限り探ってみたい。