◇2020年度日本比較文学会第01回北海道研究会プログラム

  • 大野氏の発表がご事情によりキャンセルとなりました。それに伴い、袁氏の発表時間を繰り上げています。
  • 日時 2020年7月11日(土)14:00開会(TV会議入室は13:40より)
  • 開催方法および参加方法について
    • ZOOMによるオンライン開催とし、参加は日本比較文学会員限定となります
    • 参加を希望される会員は、7月3日(金)17時までに、北海道支部事務局までその旨ご連絡ください。参加者として事前登録したうえで、資料や接続方法についてご連絡します。
    • なお、参加は原則として日本比較文学会会員に限りますが、北海道支部会員の紹介のある場合は、会員以外の方の参加を認めることにします。会員以外で参加希望の方は、ご紹介者の北海道支部会員のお名前を添え、メールで支部事務局にお申し込みください。

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〈開会の辞〉  村田 裕和(北海道教育大学旭川校


■研究発表 14:05-15:4514:50  司会:齊田春菜(北海道大学大学院文学院)
F. S. Fitzgerald “My Lost City”と村上春樹の翻訳
大野 建(北海道大学大学院文学院)


多和田葉子「ゴットハルト鉄道」論――身体的原点に回帰できない旅
袁嘉孜(北海道大学大学院文学院)


〈閉会の辞〉  中村 三春(支部長、北海道大学


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【発表要旨】

〈研究発表〉
F. S. Fitzgerald “My Lost City”と村上春樹の翻訳大野 建(北海道大学大学院文学院)
 スコット・フィッツジェラルド Francis Scott Fitzgerald(1896~1940)やレイモンド・チャンドラー Raymond Chandler(1888~1959)からの影響を公言する村上春樹は、この二人にトルーマン・カポーティ Truman Capote(1924~1984)を加えてアメリカ文学における都市小説の系譜を看取し、その出発点として「フィッツジェラルドにおける都市の発見は(中略)『マイ・ロスト・シティー』のエンパイア・ステート・ビルからの眺めに始まる」と述べている(「都市小説の成立と展開」、『海』1982.5)。村上は特にデビュー当初、都市小説作家と評され、フィッツジェラルドの都市に対する感覚との共通性を論じられている。村上自身も“My Lost City”に対する思い入れは深く、最初の翻訳書『マイ・ロスト・シティー』(1981)の表題に用いた他、改版の度に修正を加えながら2019年には新訳も発表しており、翻訳のバージョンは4編にも上る。また度々、作家と都市の関係を描いた「優れた文章」と評価しており、村上小説における都市を考察する際、このエッセイの存在は無視できない。
 とはいえフィッツジェラルドと村上の都市には相違点もあるだろう。“My Lost City”では、当時新築のエンパイア・ステート・ビルからニューヨークを見渡すことで、この都市の限界が見定められていた。技術の進歩や経済発展といった近代アメリカの歴史を織り込みつつ、かつてプラザホテルの屋上から眺めたニューヨークとエンパイア・ステート・ビルから眺めたニューヨークを対比することで第一次世界大戦を挟んだ都市の変化を語るのである。しかし、村上の小説においてはこのような現実の都市に根差した具体的な構造物や機能はそれほど顕著に書かれない。
 本発表では翻訳テクストのバージョンごとの異同にも留意しながら“My Lost City”の原文と翻訳を比較し、村上の翻訳の戦略を明らかにすると同時に、両者の都市を比較対照し村上における都市の独自性の検討を試みる。

〈研究発表〉
多和田葉子「ゴットハルト鉄道」論――身体的原点に回帰できない旅袁嘉孜(北海道大学大学院文学院)
 多和田葉子はドイツ、ドイツ語と深い関わりを持ち、日独バイリンガル作家として国際的に活躍する。「ゴットハルト鉄道」という作品は、フリーライターである「わたし」の鉄道旅行の体験記である。ゴットハルトと言えば、それはスイス連邦の起源、アイデンティティーの象徴として捉えられている。この前提に立って、チューリッヒからゴットハルト山塊を貫通するという「わたし」の身体の移動は、まさにスイスという国家の起源ひいては現代国家という概念の誕生に遡る旅であると考えられる。一方、物語の冒頭部では、ゴットハルトについて、人間の身体の部位に喩えて男性の風貌を形象化して語られている。このような物事を擬人化し、身体的記号を用いて描く手法に通じて、山を通り抜けることは、いわゆる身体を突き通ることであると解釈できる。つまり、これは身体の内部に貫入する物語である。
 この作品では、あらゆるものを身体に喩えて表わす手法を通じて、身体が精神の基底にあることを示していると見受けられる。この意味で、本発表では、身体の内部を身体的原点として想定する。ところが、この旅は「わたし」がゲッシェネンという場所に引き返すことに一転し、国家の起源に遡る旅が未完了の状態で終わり、それに伴い、物語にはズレが生じる。 結局、「夢にまで見たゴットハルトのお腹に。入らなかったに違いない。入ったとは、とてもおもえなかった」というように、「わたし」はゴットハルトの身体の内部に入ったか、入らなかったか明確に判明しない結末を迎える。
 本発表は、このような身体的比喩をテクストの基本的原理として基底化する手法を分析したうえで、多和田葉子の小説言語を明らかにし、物語のズレを分析し、この身体的記号で語られる鉄道の旅を、身体的原点に回帰できない旅として読み直すことを試みる。