◇2020年度第02回北海道研究会プログラム

  • 日時 2021年3月27日(土)14:00開会(ミーティング入室は13:45より)
  • 開催方法および参加方法について
    • WebExによるオンライン開催となります(一般聴講歓迎)
    • 参加を希望される方は、3月24日(水)24時までに北海道支部事務局までその旨ご連絡ください。参加者として事前登録したうえで、資料や接続方法についてご連絡します。

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〈開会の辞〉  梶谷 崇(北海道科学大学

■研究発表 14:05-15:45
多和田葉子「ペルソナ」論―アイデンティティの演劇性
袁 嘉孜(北海道大学大学院文学院)司会 齊田 春菜(北海道大学大学院文学院)

<休憩>

ひらがなの天使―概観 谷川俊太郎パウル・クレー
中村 三春(北海道大学司会 秋元 裕子(北海学園大学非常勤講師)

〈閉会の辞〉        中村 三春(支部長、北海道大学

■総会 15:55-

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【発表要旨】

〈研究発表〉
多和田葉子「ペルソナ」論―アイデンティティの演劇性袁 嘉孜(北海道大学大学院文学院)
 多和田葉子は、1990年8月にドイツ語学文学国際学会(IVG)でハイナー・ミュラー能楽の関係について発表した。多和田葉子「わたしが修論を書いた頃」(『多和田葉子/ハイナー・ミュラー 演劇表象の現場』東京外国語大学出版会、2020年10月)によれば、その発表内容は、修士論文 Eine "Lesereise" (mit) der Hamletmashcine.Intertexualität und Relektüre bei Heier Müller(1991)の第五章に当たるものという。また、同論文から節録したものだと考えられるが、1993年6月に雑誌『批評空間』第Ⅰ期10号に掲載され、のちに『カタコトのうわごと』(2007)に所収する「身体・声・仮面――ハイナー・ミュラーの演劇と能の間の呼応」によれば、多和田は、能の様式、特に能面と役者の身体との関係について、「能面は、切り落とされた死者の首のようなもの[…]その首が、失われた身体を取り戻そうとして、役者に取り憑く。身体のない死んだ女が、言葉を発するために、生きた男の肉体に取り憑いて、それを使用する」と述べている。
「ペルソナ」(1992)は、登場人物たちの対話にずれが生じる場面の連続によって物語が進行する小説であるが、その始まりは顔をめぐる話である。テクストの前半部では、ナショナリティや偏見、差別などの多様な次元において、顔という言葉の意味合いの多様化が展開される。このようなナショナリティや偏見、差別問題は、移民に関わる文学において常に語られるが、このテクストにおいては、顔を通して描かれており、結末において能面に収束されるのである。外国人としてある国に滞在する主人公たちを、多和田は繰り返し作品において取り上げているが、能を取り入れたのは、この一作しかない。本発表は、こうした多和田葉子と能との関わりを考慮し、多和田の言葉に注目しつつ、ナショナリティに対するステレオタイプや偏見、差別、またアイデンティティをめぐる問題などを論点として「ペルソナ」を読み直すことを試みたい。

ひらがなの天使―概観 谷川俊太郎パウル・クレー中村 三春(北海道大学
 1995年、谷川俊太郎は詩集と音楽CDをセットにした『モーツァルトを聴く人』を1月に、クレーの絵と詩を配した『クレーの絵本』を10月に刊行した。前者のCDには所収の詩の自作朗読とモーツァルトの曲が配合され、また後者は『クレーの天使』(2000.10)へと続くものである。『クレーの絵本』のあとがき「魂の住む絵」では、「若いころから私は彼の絵にうながされて詩を書いてきた。ちょうどモーツァルトの音楽にうながされてそうしてきたように」とある。しかし、「うながされて」、すなわち(同じあとがきの言葉を借りれば)「触発」されて書く詩とは何であろうか。
 谷川の様式一般論として言えば、既に論じたように、「外部との接続による触発、あるいは、他者からの枠付けによる発語を、明示的に、あるいは暗示的に詩様式の内部に組み込むのが谷川のテクストなのである」(中村三春「序説・現代芸術としての谷川俊太郎の詩―ひらがな詩・翻訳・『私性』―」、『北海道大学文学研究院紀要』160、2020.3)。ただしその際、だからといって詩の、表現としての側面が消失するわけではない。むしろ「触発」されることによって触発対象との間で響き合いや止揚が発生し、内部的であると同時に外部的でもある、あるいは、自己同一性を否定されることによって現れる非同一性としての属性が強調される結果となる。谷川は、伝統的な通常の比較文学的な意味合いにおいては、モーツァルトからもクレーからも影響は受けていないだろう。だが、「触発」や流用によって構築される現代芸術としての谷川の詩は、にもかかわらずそれらとの緊密な関わりを結んでいると言わなければなるまい。
 本発表では、最終的にひらがな詩の珠玉の結晶である『クレーの天使』を評価することを展望しつつ、その前提として「触発」による詩様式のあり方について、これらの三詩集を中心に据えて再検討してみたい。