◇2021年度北海道大会プログラム

  • 日時 2021年12月5日(日)14:00開会(ミーティング入室は13:45より)
  • 開催方法および参加方法について
    • WebExによるオンライン開催となります(一般聴講歓迎)
    • 参加を希望される方は、11月30日(火)24時までに北海道支部事務局までその旨ご連絡ください。参加者として事前登録したうえで、資料や接続方法についてご連絡します。
    • 可能な方はカメラをオンにしてご参加くださいますようお願いします。

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〈開会の辞〉  テレングト アイトル(北海学園大学

■研究発表 14:05-15:45
多和田葉子「アルファベットの傷口」試論―「借用」のメカニズム―
袁 嘉孜(北海道大学大学院文学院)司会 秋元 裕子(北海学園大学非常勤講師)

<休憩>

「思想」としてのリズムと『再訳朝鮮詩集』
権 保慶(国立アイヌ民族博物館)司会 村田 裕和(北海道教育大学旭川校

〈閉会の辞〉        梶谷 崇(支部長、北海道科学大学

〈Web懇親会〉(16:00~16:30頃)

  ※発表者、会員との自由な情報交換の場として開催します(参加は任意)。


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【発表要旨】

〈研究発表〉
多和田葉子「アルファベットの傷口」試論―「借用」のメカニズム―袁 嘉孜(北海道大学大学院文学院)
 「アルファベットの傷口」(1993.3)の題名について、多和田葉子「作者から文庫読者のみなさんへ」(『かかとを失くして 三人関係 文字移植』講談社文芸文庫、2014.4)は、「『わたし』がドイツ語から日本語に翻訳しているのは、Anne Dudenという作家の『Der wunde Punkt im Alphabet』という短編で、これをわたし流に日本語に訳すと『アルファベットの傷口』になる。この訳語に新鮮な驚きを感じ、単行本が出た時には題名にさせてもらった」と述べた。つまり、多和田の「アルファベットの傷口」の題名はアンネ・ドゥーデンの作品から借用してきたものである。そして、そのテクストもまた、アンネ・ドゥーデンの作品を断片化し、「わたし」の訳文として物語の中に挿入して、小説に織り込むという形式をとって借用したのである。
 その意味で、この作品は、アンネ・ドゥーデンの作品の第二次的テクストとして捉えることはできるだろう。しかしながら、先行研究では、「アルファベットの傷口」と、その主人公の「わたし」が翻訳する作品としてテクストの中に取り入れて借用したアンネ・ドゥーデンの作品との関わりについて検討したものは少ない。本発表は、この作品における先行テクストとの間テクスト性の様相について分析することを試みる。
 借用(adoption)とは、採用、導入、取り入れることという意味を指す。多和田(Von der Muttersprache zur Sprachmutter. In: Talisman, 1996)は、新しく習得したドイツ語で繰り返して書くことは、自分が新しい言語に採用されることを可能にしたという。そのなかで「採用される」と訳した言葉の原文は、adoptiertであった。その原型は、adoptierenであり、「養子・養女にする」という意味も含み、英語のto adoptとほぼ同じ意味として使われる。本発表では、「アルファベットの傷口」を取り上げて考察し、多和田の文学的様式の重要部分を占める「エクソフォニー」の特性を、この借用の手法のメカニズムとの関わりにおいて追究してみたい。

「思想」としてのリズムと『再訳朝鮮詩集』権 保慶(国立アイヌ民族博物館)
 『再訳朝鮮詩集』(二〇〇七)は在日コリアン詩人金時鐘(一九二九~)による金素雲訳編『朝鮮詩集』(一九四〇、一九四三、一九五三、一九五四)の再翻訳である。
 二つの『朝鮮詩集』の最も大きな違いは、「七五調」―金時鐘は「七五調」を日本語の音数律の総称として使っている―の使用の有無にある。周知のように、金素雲(一九〇八~八一)は七五調をはじめ、五七調、五五調、七と五を自由に交差させた形など、「七五調」を援用しながら翻訳を行った。これについては、「名訳」という評価がある一方、日本の植民地支配に対する金素雲の迎合ないしは「原詩への暴力」という批判がなされてきた。金時鐘は後者の批判的立場から『朝鮮詩集』を再翻訳しており、「七五調」は一切使っていない。
 「七五調」をめぐるこのような対立構図は両者の訳詩法の違いを明快に示すように見える。実際に金時鐘の訳詩法については、具体的な考察があまりなされないまま、金素雲の同化的な翻訳に対する異化的な翻訳、または、彼自身『再訳朝鮮詩集』の序文で断っている通り、「原詩に忠実に迫〔った翻訳〕」と単純に受け取られてきた傾向がある。
 しかし、従来の議論には次の三つの視点が欠けている。第一に、金時鐘において「七五調」とはどういう意味を持つものなのか、それは金素雲におけるそれとはどのように異なるのか、第二に、果たして二人は原文である朝鮮詩とそのリズムについてはどのように捉えていたのか、第三に、金時鐘は「七五調」をどのように使わなかったのか・・・・・・・・
 本発表では、金時鐘が朝鮮と日本の詩は批評的抒情より情感的抒情を追求するという点で類似すると捉えていたこと、また、朝鮮語と日本語のリズムの特徴はそれぞれ聴覚性と定型にあるとしつつ、両者を両国の詩の情感的抒情の要因だと考えていたこと、そして『朝鮮詩集』の再翻訳を通して両者間の翻訳の可能性を探るとともに、金素雲の「七五調」訳の妥当性を検証しようとしたことに着目し、『再訳朝鮮詩集』の意味とその訳詩法を再考してみたい。