◇2021年度北海道・東北支部第6回比較文学研究会プログラム

  • 日時 2022年3月27日(日)12:30開会(ミーティング入室は12:15より)
  • 開催方法および参加方法について
    • 会場と、オンライン会議用ソフト「Zoom」を使用したオンラインでの開催を併用する形式で行います。会場、オンラインいずれの参加でも、全ての発表を聞くことができます(プログラム中の「会場での発表」「オンラインでの発表」とは、発表者が用いる方式のことを指しています)

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〈開会の辞〉  梶谷 崇(北海道支部長、北海道科学大学

■研究発表 12:35-13:20
谷川俊太郎の英訳併録詩集―『メランコリーの川下り』と『minimal』をめぐって―
中村 三春(北海道大学司会 井上 貴翔(北海道医療大学※オンラインでの発表

■特集 北方体験とその表象―シベリア・サハリン・満州― 13:20-16:35
司会 中村 唯史(京都大学
コメンテーター 天野 尚樹(ゲスト 山形大学

村上春樹ねじまき鳥クロニクル』における満州・シベリア
大野 建(北海道大学大学院)※会場での発表

マイナー文学者高木恭造が表象する満洲―エコクリティシズムの観点から―
SOLOMON JOSHUA LEE(弘前大学※オンラインでの発表

<休憩> 14:15-14:25

ドゥシェグープカの記憶——長谷川四郎『シベリヤ物語』と戦後日本
村田 裕和(北海道教育大学旭川校※会場での発表

日本新聞』とロシア・ソビエト文学―シベリア抑留者の文学空間―
溝渕 園子(広島大学※オンラインでの発表

コメント+ディスカッション

〈閉会の辞〉   森田 直子(東北支部長、東北大学

■北海道支部総会 16:45〜

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【発表要旨】

〈研究発表〉
谷川俊太郎の英訳併録詩集―『メランコリーの川下り』と『minimal』をめぐって―中村 三春(北海道大学
 谷川俊太郎の『minimal』(2002.10、思潮社)は、谷川の詩と、William I.Elliottおよび川村和夫によるその英訳とが配置された詩集であり、その先駆は詩集『メランコリーの川下り』(1988.12、同)であった。鼎談「新詩集『minimal』をめぐって」(谷川俊太郎・田原・山田兼士『谷川俊太郎《詩》を語る—ダイアローグ・イン・大阪 2000〜2003』、2003.6、澪標)において、谷川は、『minimal』の英訳は二人による訳をいわば監修して、「この主語は『I』じゃなくて『You』なんだよとか」と助言したことを明らかにしている。山田兼士はこのことを踏まえ、「英訳が注釈になるという機能」があり、同詩集巻頭の「襤褸」を例として、原詩では曖昧な箇所が、英訳では自分の読み方とは違って明確化されることを説明する。それに対して谷川は、「作者とは違う読みの方がいい場合もあるんですよね」と答えている。
 自らもレオ・レオニ作品やマザー・グース詩集、ピーナッツ・シリーズの翻訳者である谷川の詩集は、エリオットと川村によって多く翻訳され、特に集英社文庫版の『二十億光年の孤独』(2008.2)や『62のソネット+36』(2009.7)にも両者による英訳が収録され、普及している。ただしここで考えたいのは、初版刊行時から既に英訳が併録されることの意味についてである。通常、翻訳は解釈であるから、原文と異なることは意外ではない。だが、たとえば「襤褸」の場合、一読して必ずしも相容れるものではない原詩と訳詩とが、著者のいわば監修の下に最初から同居している。これは、総体として見れば、詩の表現に意図して雑音を混入させる手法なのではないか。その時、詩や詩集の様式・性格は、そうでない場合と比してどのようにとらえるべきなのか。
 発表者はこれまで、谷川の詩集におけるアプロプリエーション(流用)やシミュレーション(模造)さらに触発の手法から、その現代芸術としての性質を探ってきた。ここではその延長線上に、英訳併録という構成が生む接続の様態について、検証を試みたい。

特集「北方体験とその表象―シベリア・サハリン・満州―」趣旨高橋 由貴(福島大学
 比較文学研究において〈越境〉という語が重要視されて久しい。越境先である〈向こう〉の土地の記憶や体験を〈こちら〉と分有する営みは、多くの人が関心を持つものでありながら、しかしそう容易ではない。入植や抑留など、国家や社会状況に強いられる滞在・移動の場合、そこでは〈越境〉すべき〈向こう〉と〈こちら〉との境界線すら引き直されることになる。今回の特集ではシベリア、サハリン(樺太)、そして「満州」に目を向けたい。近代日本にとって、苛酷な場所であり最も激しく境界線の引き直しが生じたこの地域における記憶や体験のあり方、そしてその伝達・表象の問題について考えたい。
 溝渕園子氏には、ハバロフスクで刊行された抑留者向けタブロイド版『日本新聞』の調査を踏まえた、抑留の場における文学的体験に関するご報告をいただく。村田裕和氏には、長谷川四郎『シベリヤ物語』に読み落とされてきた「ドゥシェグープカ」のイメージを通じて、戦後日本における抑留の記憶の位置づけについて論じていただく。SOLOMON JOSHUA LEE氏には、青森の方言詩人としてのみとりあげられることの多い高木恭造の、満州日本語文学作家としての側面に焦点をすえ、高木が満州体験をどのように描いたのか、エコクリティシズムの観点から論じていただく。大野建氏には、村上春樹ねじまき鳥クロニクル』における満州・シベリアの戦争体験談について、作家が湾岸戦争下に渡米していたことを踏まえながら、その歴史叙述としてのあり方を論じていただく。これらの報告・発表については、ゲストとしてお招きするロシア極東史を専門とする天野尚樹氏のコメント、ロシア文学を専門とする中村唯史氏の司会によって、参加者全体で議論を深めていくこととしたい。

村上春樹ねじまき鳥クロニクル』における満州・シベリア大野 建(北海道大学大学院)
 村上春樹ねじまき鳥クロニクル』(新潮社、1994-1995年)は、ノモンハン戦争を中心に第二次世界大戦を題材に取ったことで有名である。それまでの村上作品には見られない歴史的事件の凄惨な描写が評価される一方で、失踪した妻を探す現代のストーリーとの繋がりの曖昧さは議論を集めてもいる。小説で語られる歴史は主人公によって捉えられた一種のフィクションであり現実の歴史的事実との関わりはなく、戦争は都合のいい題材に過ぎないと見なす論者もある。だが、湾岸戦争下に渡米し日本のあり方を問われる中で戦後日本と戦争の関係を考えざるをえなかった村上にとって、歴史を現代の中に息づくものとして小説に用いることは必然的な方法である。『ねじまき鳥クロニクル』における満州・シベリアでの戦争体験談は、村上の小説技法とあわせて再度検討される必要がある。エッセイ等で語られる『ねじまき鳥クロニクル』の方法を検証し、本作の歴史叙述の意味を明らかにする。このことは村上が考える戦後日本の問題の中の満州・シベリアでの戦争の歴史の位置を考えることに繋がる。

マイナー文学者高木恭造が表象する満洲―エコクリティシズムの観点から―SOLOMON JOSHUA LEE(弘前大学
 本発表では、高木恭造文学における満洲の表象について考察する。高木は福士幸次郎の下で地方主義を教わり、地方語による詩集『まるめろ』を1931年に出版した。ところが、実に多様である高木文学はほとんど知られておらず、また「方言詩」のうちに入らない作品が既存の研究では取り上げられていない。そこで、満洲日本語文壇の一人としての高木について研究を行っている。
 これまで、発表者の満洲日本語文学論において、「マイナー性」を解析することを目的としてきた。「動物や植物になる者」というテーマを認識し、入植者が大陸の風景に合体する、あるいは人間性を喪失する、といった比喩が用いられることを指摘した。本発表では、試行的に、エコクリティシズムの観点から、高木の満洲文学に目を向ける。家畜、野生の動物、樹木、細菌(結核、ペスト、梅毒)、身体が変化する人間など、幅広い題材を扱った高木文学だが、自然界を通していかに満洲を描いたかという点について、高木のマイナー性や政治性について紹介する。

ドゥシェグープカの記憶——長谷川四郎『シベリヤ物語』と戦後日本村田 裕和(北海道教育大学旭川校
 長谷川四郎『シベリヤ物語』(1952年)には「ドゥシェグープカ」(Душегубка 移動ガス室)という言葉が出て来る。この言葉を使ったソ連軍の将校は、ドゥシェグープカを「巨大なる大量殺人装置」と説明していた。仔細に読めば本書にはドゥシェグープカの比喩的イメージが随所に散りばめられている。しかし、『シベリヤ物語』は「のんきな本」で、苦難のシベリア抑留体験を十分に表現していないという違和感が示されてきた。本多秋五は『物語戦後文学史』において、大岡昇平を対照的に浮かび上がらせる文脈の中でのみ長谷川四郎に言及しており、無視しえない存在でありながら位置づけの困難な作家とみられてきたように思われる。長谷川四郎の異質性は、現在に至るまで日露関係史そのものが忘却され、シベリア抑留の記憶がいまだ了解不可能なものとして歴史の片隅に投げ出されていることと深く関係しているのではなかろうか。『シベリヤ物語』の分析を通して戦後日本の忘却と無意識を考えたい。

日本新聞』とロシア・ソビエト文学―シベリア抑留者の文学空間―溝渕 園子(広島大学
 第二次世界大戦での日本の降伏が決定した後、極東ハバロフスクで刊行されたタブロイド版の『日本新聞』(1945年9月15日-1949年12月30日)は、シベリア抑留者にとって唯一の日本語新聞であった。ソ連陸海軍政治部の下におかれ、日本人捕虜の政治思想教育を目的としていたが、記事内容は政治・社会の他、文学も含まれている。各々の情報源は、当時のソ連と日本の双方の報道メディアとされ、発行に際しては日本人も参画した。本報告では、宣伝メディアとしての『日本新聞』の性質をふまえつつ、収容所という閉塞的な場が、情報を介してソ連国内や日本国内とつながることによって、そこにいかなる文学空間が立ちあらわれたのかを検討する。シベリア抑留者の間で共有されていた、文学的体験について議論するための手がかりを探りたい。