◇2019年度日本比較文学会北海道研究会プログラム

  • 日時 2020年3月20日(金)14:00開会(13:30より受付)
  • 会場 藤女子大学北16条キャンパス 新館374教室

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〈開会の辞〉  種田 和加子(藤女子大学


■研究発表 14:00-16:20
有島武郎の「ローファー」と「超人」
何 雯(北海道大学大学院文学院)
司会:袁 嘉孜(北海道大学大学院文学院)


F. S. Fitzgerald “My Lost City”と村上春樹の翻訳
大野 建(北海道大学大学院文学院)
司会:平野 葵(北海道大学大学院文学院)


創造力の外側へ・赤瀬川原平シュールレアリスム(1)
――〈超芸術トマソン〉と「路上観察
秋元裕子(北海学園大学非常勤講師)
司会:村田 裕和(北海道教育大学

<休憩>

■〈比較文学比較文化 名著読解講座 第18回〉16:35-17:20
T.R.ライト『神学と文学――言語を機軸にした相関性』
(山形和美訳、聖学院大学出版会、2009年)
西岡 沙都美(北海道大学大学院文学院)
司会:梶谷 崇(北海道科学大学


〈閉会の辞〉  中村 三春(支部長、北海道大学

〈総会〉17:25-


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【発表要旨】

〈研究発表〉
有島武郎の「ローファー」と「超人」何 雯(北海道大学大学院文学院)
 有島武郎1903年から死の1923年までの二〇年間の間、日記、書簡、評論、小説などにおいて、繰り返しニーチェの名、思想などについて言及しており、ニーチェの主の著作にもほとんど触れているのである。それにも関わらず、有島のニーチェ受容についての研究は、数少ないと言わざるを得ない。
 有島は講演「ホイットマンに就いて」(1921・3)において、「ローファー」という理想の人物像を規定した。従来の研究では、「ローファー」という概念をホイットマン思想と比較研究するものが多い。ただし、「ホイットマンに就いて」の構成から見ると、「ローファー」はホイットマン思想に由来するというより、むしろホイットマンを評価するための一つの前提となる基準だと言った方が適切だと考えられる。しかも、有島はこの講演において、ホイットマンは「ローファー」だと述べたのだが、「ホイットマンの一断面」(1913・6)では、ホイットマンを「超人」だとも評したのである。そこで、本発表は、「ローファー」と「超人」とは、有島にとって何らかの関連性を持っていると考え、それを明らかにしたいのである。
 有島の思想経歴から見ると、「ローファー」は、「惜みなく愛は奪ふ」(1920・6)において提示された「本能的生活」の実行者だと考えられる。しかし、「本能的生活」論は破壊、及び創造を強調するのに対し、「ローファー」論はそうした意欲を持っておらず、完全に〈思うまま〉に行動することを提唱するのである。このような思想の展開は、ニーチェツァラトゥストラ』における、「超人」思想に至るまでの一連の思想展開と類縁性を持っていると考えられる。また、本発表は「カインの末裔」の仁右衛門、及び「或る女」の早月葉子を有島の「ローファー」思想の実験として見なし、そこから有島の「ローファー」ないし「超人」に対する態度を明らかにしたい。

〈研究発表〉
F. S. Fitzgerald “My Lost City”と村上春樹の翻訳大野 建(北海道大学大学院文学院)
 スコット・フィッツジェラルド Francis Scott Fitzgerald(1896~1940)やレイモンド・チャンドラー Raymond Chandler(1888~1959)からの影響を公言する村上春樹は、この二人にトルーマン・カポーティ Truman Capote(1924~1984)を加えてアメリカ文学における都市小説の系譜を看取し、その出発点として「フィッツジェラルドにおける都市の発見は(中略)『マイ・ロスト・シティー』のエンパイア・ステート・ビルからの眺めに始まる」と述べている(「都市小説の成立と展開」、『海』1982.5)。村上は特にデビュー当初、都市小説作家と評され、フィッツジェラルドの都市に対する感覚との共通性を論じられている。村上自身も“My Lost City”に対する思い入れは深く、最初の翻訳書『マイ・ロスト・シティー』(1981)の表題に用いた他、改版の度に修正を加えながら2019年には新訳も発表しており、翻訳のバージョンは4編にも上る。また度々、作家と都市の関係を描いた「優れた文章」と評価しており、村上小説における都市を考察する際、このエッセイの存在は無視できない。
 とはいえフィッツジェラルドと村上の都市には相違点もあるだろう。“My Lost City”では、当時新築のエンパイア・ステート・ビルからニューヨークを見渡すことで、この都市の限界が見定められていた。技術の進歩や経済発展といった近代アメリカの歴史を織り込みつつ、かつてプラザホテルの屋上から眺めたニューヨークとエンパイア・ステート・ビルから眺めたニューヨークを対比することで第一次世界大戦を挟んだ都市の変化を語るのである。しかし、村上の小説においてはこのような現実の都市に根差した具体的な構造物や機能はそれほど顕著に書かれない。
 本発表では翻訳テクストのバージョンごとの異同にも留意しながら“My Lost City”の原文と翻訳を比較し、村上の翻訳の戦略を明らかにすると同時に、両者の都市を比較対照し村上における都市の独自性の検討を試みる。

〈研究発表〉
創造力の外側へ・赤瀬川原平シュールレアリスム(1)
――〈超芸術トマソン〉と「路上観察
秋元裕子(北海学園大学非常勤講師)
 赤瀬川原平(1937~2014)は、戦後前衛芸術家として出発し、読売アンデパンダン、ネオダダ、ハイレッド・センター等の芸術活動を経て、1981年「尾辻克彦」名で第84回芥川賞を受賞している。この間の経緯を「私は自分の若いころの焦燥を思い出した。私も本当は、こんなアトリエという場所がほしかったのだ。(略・引用者)油絵というのは植物みたいなもので、その根拠地としての場所がどうしても必要である。(略・引用者)不動産のないところで、私の絵画は蒸発してしまった。(略・引用者)そこからオブジェへと目が開かれて、レディメイドの概念を引き寄せてしまい、それがさらにガラクタ一般を通りながら瞬間のオブジェへと縮まり、アトリエ不要の梱包作品から、路上を浮遊するハプニングへと変貌していく。(略・引用者)私の作業はその後さらに机一つでできるイラストレーションから、鉛筆一本でできる小説にまで変貌して来た」(赤瀬川原平『反芸術アンパン』ちくま文庫、1994年、46頁)と回想している。このようにして造形芸術から文筆へと活動の形態や媒体を変えたとはいえ、彼はその絵画から「蒸発してしまった」〈芸術〉なるものを、生涯一貫して求めていた。
 一方、その死後『世の中は偶然に満ちている』(筑摩書房、2015年)が上梓され、70年代から継続して書かれていた「偶然日記」の一部が開示されて、赤瀬川が常に〈偶然〉に関心を抱いていたことが明らかになった。
 なぜ彼は〈偶然〉に魅了されたのか、〈偶然〉は彼に何をもたらすものだったのか。〈偶然〉と〈芸術〉なるものは、どのように交わるのか。赤瀬川のテクストから読み解いてみたい。
 本発表では、主としてシュールレアリスム(М・デュシャン瀧口修造)を手掛かりにして、赤瀬川の提唱した〈超芸術トマソン〉と「路上観察」を分析し、〈芸術〉なるものの巷間への偏在化、および「創造」を超えた「発見の力」について考察したい。
 なお、本発表の延長線上には、赤瀬川の「偶然日記」と、A・ブルトン『ナジャ』(1928年)における、テクストと現実との交流的作用の比較分析を見据えている。

比較文学比較文化 名著読解講座 第18回〉
T.R.ライト『神学と文学――言語を機軸にした相関性』
(山形和美訳、聖学院大学出版会、2009年)
西岡 沙都美(北海道大学大学院文学院)
 『神学と文学――言語を機軸にした相関性』は、「文芸批評家」テレンス.R.ライト(Terence R. Wright)によって、一九八八年に出版され、二〇〇九年に山形和美によって翻訳が行われたものである。ライトは、本書の目的として「神学と文学」の「相関関係」、「詩、物語、劇などが重要な神学的真理を表現できることを証明する」ことを掲げている。
 本書は、「第一章 信仰の詩学に向かって」、「第二章 聖書を文学として読むことについて」、「第三章 語りの神学――信仰の物語」、「第四章 隠喩的神学――信仰の詩」、「第五章 神学とドラマ――信仰と疑惑の行為」の五章からなっている。第一章においては、「語り、詩、劇などがキリスト教の信仰を探求するという神学的な作業にどの程度関わりを持ってきたかを考察」し、二章においては「創世記」、「マルコによる福音書」の「文学的形態の理論的重要性」について論じている。また、三章では文学、神学に共通する「物語る行為」を問題にし、メタフィクションについて論じた。第四章では詩における「比喩的方策」について言及し、第五章では、劇における神学的な意味について論じている。
 ライトは本書において、「神学」と「文学」という二つの分野が一緒に論じられるようになった一九五〇年代から本書の出版までのおよそ四十年にわたる研究史を概括し、いくつかの作品の分析をもとに神学と文学との関係を示した。一方で、ライト自身が述べるように本書は「体系的ではあるが包括的でない」。文芸作品の分析にあたって、取り上げる作品は制限されているためである。ライトが本書において行っている、神学と文学という「分野の本質に関する対話や両分野間の相互作用の可能性についての対話」を「継続」していく必要がある。
今回の読解講座では、本書を軸に神学と文学との比較がこれまでどのように行われてきたかについて確認し、日本近現代文学キリスト教との関係について考察を行いたい。また、実際の作品分析として、太宰治の「駈込み訴へ」を中心に日本のキリスト教文学として扱われている作品を取り上げ、神学と文学との関係について検討していきたい。

神学と文学―言語を機軸にした相関性

神学と文学―言語を機軸にした相関性