◇2023年度日本比較文学会北海道大会プログラム

〈開会の辞〉  上戸 理恵(札幌大谷大学

■研究発表 13:05-14:35
1. 創造力の外側へ・赤瀬川原平シュールレアリスム(1)――〈超芸術トマソン〉と「路上観察
秋元 裕子(北海学園大学非常勤)司会 飛ヶ谷 美穂子

2. 村上春樹の翻訳法の形成と変化――F. S. Fitzgerald "My Lost City"村上春樹訳の改稿
大野 建(北海道大学大学院文学院)司会 中村 建(北海道大学大学院文学院)

<休憩>

■講演 14:45-16:05
翻訳について考えるときに私たちの考えること
邵 丹(東京外国語大学司会 中村 三春(北海道大学

〈閉会の辞〉  梶谷 崇(北海道支部長 北海道科学大学

<休憩>

■北海道支部総会 16:30-17:00

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【発表要旨】

〈研究発表〉
創造力の外側へ・赤瀬川原平シュールレアリスム(1)――〈超芸術トマソン〉と「路上観察秋元 裕子(北海学園大学非常勤)
 赤瀬川原平(1937~2014)は、1950年代前衛画家として出発し、読売アンデパンダン、ネオダダ、ハイレッド・センター等の芸術活動を経て、1981年「尾辻克彦」名で第84回芥川賞を受賞している。この間の経緯を「油絵というのは植物みたいなもので、その根拠地としての場所がどうしても必要である。(略・引用者)不動産のないところで、私の絵画は蒸発してしまった。(略・引用者)そこからオブジェへと目が開かれて、レディメイドの概念を引き寄せてしまい、それがさらにガラクタ一般を通りながら瞬間のオブジェへと縮まり、アトリエ不要の梱包作品から、路上を浮遊するハプニングへと変貌していく。(略・引用者)私の作業はその後さらに机一つでできるイラストレーションから、鉛筆一本でできる小説にまで変貌して来た」(赤瀬川原平『反芸術アンパン』筑摩書房、1994年、46頁)と回想した。このようにして様々に活動の形態や媒体を変えたものの、彼はその絵画から「蒸発してしまった」〈芸術〉なるものを、一貫して求めていた。
 また、死後『世の中は偶然に満ちている』(筑摩書房、2015年)が上梓され、70年代から継続して書かれていた「偶然日記」の一部が開示されて、赤瀬川の、〈偶然〉への恒常的な関心が明らかになった。
 なぜ彼は〈偶然〉に魅了されたのか、〈偶然〉は彼に何を齎すものだったのか。〈偶然〉と〈芸術〉なるものは、どのように交わるのか。
 本発表では、主にシュールレアリスム(М・デュシャン瀧口修造)を手掛かりに、赤瀬川の提唱した〈超芸術トマソン〉と「路上観察」を分析し、〈芸術〉なるものの巷間への遍在化、及び「創造」を超えた「発見の力」について考察する。
 一方、「赤瀬川さんの才能」には「際立ったものが」あったと、詩人吉増剛造は最大級の賛辞を贈っている(吉増剛造『詩とは何か』講談社、2021年、206頁)。本発表を、吉増が詩人として身を委ねる「ネガティブ・ケイパビリティ」と、赤瀬川の美学との接点を探る第一歩としたい。

〈研究発表〉
村上春樹の翻訳法の形成と変化――F. S. Fitzgerald "My Lost City"村上春樹訳の改稿大野 建(北海道大学大学院文学院)
 翻訳家としての村上春樹フィッツジェラルドの翻訳からキャリアを開始させたのは周知の通りだが、その翻訳法の形成を実証的に明らかにする研究は不十分である。最初の翻訳小説集『マイ・ロスト・シティー』(中央公論社、1981年5月)の各テクストには少なくとも三つのバージョンがある。初出版、単行本版、村上春樹翻訳ライブラリー版(中央公論新社、2006年5月)である。表題作のエッセイ「マイ・ロスト・シティー」はさらに、『ある作家の夕刻 フィッツジェラルド後期作品集』(中央公論新社、2019年6月)に「私の失われた都市」と改題され収録されている。村上自身はライブラリー版再録の際に翻訳観を変化させており、大幅に手を加えたと言う。一方、翻訳研究の泰斗井上健は村上の翻訳の基本的なスタンスは単行本版の時点でほぼ定まっていたと言う。だが、「マイ・ロスト・シティー」の改稿のあとを調査すると、いずれも不正確と言わざるを得ない。それでは村上はいかに翻訳を開始し、いかに翻訳観や翻訳法を変化させていったのだろうか。
 本発表では村上自身が語る翻訳に関する発言を整理しながら、「マイ・ロスト・シティー」の各バージョンと原文を比較し、翻訳観と翻訳法の変化を明らかにする。村上の翻訳は、次第に忠実な翻訳に向かっている。これには村上のアメリカ観の変化も関係している。1980年代初頭の村上は、アメリカを「記号」として捉え実体を持つ必要がないと述べていた。それゆえ自由に翻訳できていたと言えよう。だが後にそのアメリカ観は変化する。また調査の結果、初期の翻訳には村上の小説の文体が侵入していることがわかる。これは村上の初期小説の文体を翻訳文体と見る定説に再考を迫るものであろう。村上の翻訳の形成と変化を明らかにする研究は小説家としての村上を捉えなおす契機ともなる。

〈講演〉
翻訳について考えるときに私たちの考えること邵 丹(東京外国語大学
 自ら創作と翻訳を「飴と塩煎餅」に譬えたことをはじめ、2000年代初頭の『翻訳夜話』シリーズから2017年の「翻訳について語るときに僕たちの語ること」に至るまで、村上春樹は一貫して翻訳の生産性を戦略的に強調する姿勢を示し、翻訳を通して既成の文学とのしがらみを断ち切る意図を明確にしてきた。
 『翻訳を産む文学、文学を産む翻訳: 藤本和子村上春樹SF小説家と複数の訳者たち』(松柏社、2022年)は、「翻訳文学に培われた新しい感性」を持つと言われる村上春樹を育てた70年代の文化的土壌、言い換えれば、ポストモダンが急速に浸透していった転換期の日本の翻訳文化についての解明に挑む。ふたつのケース・スタディは、まったく異なる方向性からデビュー当時の村上春樹にとって影響が大きかったリチャード・ブローティガン、および、カート・ヴォネガットの受容や翻訳状況を詳しく検討した。これらのアメリカ小説家の作品群の翻訳・受容は、最初、学術界や文壇などではなく、60年代のカウンター・カルチャーの旗手たちや産業化するSF翻訳業界によって担われた。
 70年代に入ってから、演劇畑の藤本和子やSF専業訳者の浅倉久志のような人材の参入によって、文学翻訳の現場で作品にひそむユーモア、声、リズム、音楽を重要視するという形式重視の革新的なアプローチが生まれ、以降、主流化していく。こういった動きの原動力となるのは、戦後に勢いをつけた若いエネルギー、つまり、若者文化だった。翻訳文学という多元システムの内部にいち早く脱境界の動きが見受けられ、そういった変化がやがて日本現代文学を変貌させてしまった。