◇比較文学研究会 プログラム(2012年3月17日開催)

2012年3月15日更新

総合司会:梶谷崇(北海道工業大学
〈開会の辞〉13:00  北海道支部長 飛ヶ谷美穂子
■研究発表 13:05−15:45
〈研究発表I〉
交差する東と西
芥川龍之介南京の基督」論―
高啓豪(北海道大学・院生)
〈研究発表II〉
ルネ・ヴィヴィアンと小野小町
ベル・エポックのパリにおける日本文化受容のひとつのあり方として―
中島淑恵(富山大学
〈研究発表III〉
〈同感 (sympathy)〉の文学論
夏目漱石『文学論』を中心に―
木戸浦豊和(東北大学・院生)
(休憩)14:50−15:10
〈研究発表IV〉
黄遵憲の見た明治日本
張偉雄(札幌大学
(休憩)15:45−15:50
■ワークショップ 15:50−17:40

ユートピアディストピア/カタストロフィ
〈ナビゲーション&パネリスト紹介〉
司会:中村三春(北海道大学
〈報  告〉16:00−17:00
関東大震災後のモダニズムユートピア的想像力       仁平政人(弘前大学
カタストロフィの地としての「東北」
英語圏におけるそのイメージをめぐって―      伊藤豊(山形大学
チェルノブイリ事故とベラルーシの文学
放射能汚染地の描写を中心に―                     越野剛(北海道大学
〈ディスカッション〉17:00−17:40
〈閉会の辞〉17:40  東北支部長 佐藤伸宏

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【発表要旨】

〈研究発表I〉
黄遵憲の見た明治日本
張偉雄(札幌大学
 明治十年に中国の初めての駐日公使団が派遣されてきた。公使団メンバーの一人黄遵憲は四年間の日本駐在中、積極的に文化交流、日本研究をしていた。後に彼は自らの日本研究の集大成を『日本国志』にまとめた。黄遵憲が日本に来た当初、明治新政府の一連の改革に対して、不理解から来る反発をもっていた。異文化に遭遇する時に現れた反発は、自文化に対する自負から来るものが多い。しかし多くの場合、異文化に触れる機会が増えるにしたがって、相対的に自分や他者の文化を見ることができるようになり、異文化を評価できるようになる。黄遵憲は日本での文化交流が深まるにしたがって、日本的な美をみずから体得できた。そして中華大国として誇っていた自国を振り返ってみる時、彼らはそこに存在している多くの悪弊をいっそう意識するようになった。彼は自分の理想を異文化というものに託して、現実よりも理想化されたある種の美を作り出して、自国の同胞に示し、自国の改革を促進しようと動きはじたのである。本発表は黄遵憲の以上のような日本発見を探ってみるものである。

〈研究発表II〉
ルネ・ヴィヴィアンと小野小町
ベル・エポックのパリにおける日本文化受容のひとつのあり方として―
中島淑恵(富山大学
 1904年に発表された小説『二重の存在』において、物語の狂言回しヴィヴィアン・リンゼイは、小野小町を「日本のサッフォー」と呼び、「この上なく美しくこの上なくときめいていたが、名声は恋に等しく恩知らずで、路傍の果てにみじめな襤褸をまとって果てた」と紹介している。日本通の米国の女性詩人として登場するこの人物は、ベル・エポックの女性詩人であり、小説の実作者であるルネ・ヴィヴィアンの分身的な存在である。ヴィヴィアンが小町に殊更に共感を抱いている様子は、続いて発表された小話集『根付』において、詩の力によって雨乞いの奇跡を果たす小町の故事を引くことによってさらに補強されている。これほどまでに小町に心を寄せている様子が明らかでありながら、小町の、あるいは小町作とされている和歌が作中で一首も紹介されていないのはなぜか。本発表はその謎に迫りつつ、ヴィヴィアンにおける小町像のあり方について考察を試みるものである。

〈研究発表III〉
〈同感 (sympathy)〉の文学論
夏目漱石『文学論』を中心に―
木戸浦豊和(東北大学・院生)
 本発表では、夏目漱石『文学論』(大倉書店、明治四〇年)を主題的に取り上げ、文学理論としての『文学論』に内在する原理を明らかにするとともに、その原理を外在的・歴史的に捉え返すことを課題とする。『文学論』の文学概念は、「凡そ文学的内容の形式は (F + f) なることを要す」として定義されるが、この命題はさらに、修辞性を本質とする文学言語を介して「読者と作者との間の心の状態」や「読者の態度と作者の態度」などが照応・一致する〈文学現象〉として理解することができる。このとき、両者を照応・一致させるための要件として前提とされているのが、「他人と感情を共にする」〈同感 (sympathy)〉の原理である。しかも、この〈同感〉の原理は、明治期における日本の共時的な文脈においても、文学的言説と他の諸言説とを差異化するための中心的な機構として定位されていたと考えられる。このことを、広く、『文学論』と同時代の文学論や批評論をはじめ、心理学や美学の隣接諸領域の言説なども参照することによって明らかにすることとしたい。

〈研究発表IV〉
交差する東と西
芥川龍之介南京の基督」論―
高啓豪(北海道大学・院生)
 本発表は、芥川龍之介南京の基督」に存在する金花の言説と日本人旅行者の知見との間の齟齬から着想し、コロニアリズムオリエンタリズムなどの理論を証左として論旨を展開するものである。
 作中の中国人金花は、西洋宗教である基督教を受け入れつつも、根っから東洋的な思想を持っている。文化交流の面においては、金花は充分にフレキシブルな受容を体現した。さらに金花は卑しき身分でありながら、基督を夢に見る。そして自分の身上に奇跡を起こすまでに、信仰の強さを見せる。しかし、この一連の奇跡を冷たい眼差しで見る日本人旅行者が物語に登場し、彼自身が知る「事実」を以って、金花の「奇跡」を全否定しようとする。
 本作品の語りには、一九二〇年代日本と中国との力関係が隠されていると思われる。同じく東洋の一員である中、日本の近代化=西洋化が独走し、その結果、日本だけ超越した存在となり、東洋の「他者」としてアジア諸国を見ている眼差しが感じられるのである。夏目漱石「イズムの功過」でも開陳されるように、日本の文芸界は明治期の四十数年間で西洋の様々な思潮を慌ただしく取り入れようとする傾向がある。その影響が窺えるかのように、「南京の基督」には西洋本位のオリエンタリズムが東洋日本的オリエンタリズムに変形する顛末が見られ、検討する余地があると思われる。
 以上のようにして、「南京の基督」に見られる東洋と西洋との交錯を主眼に置き、論考を進めたい。

【ワークショップ】
テーマ:ユートピアディストピア/カタストロフィ

〈企画の趣旨〉

 世界を明晰なものにしようとする人間の理性は、常に世界という壁の前ではね返される。その対峙の状態をアルベール・カミュは〈不条理〉(absurde)と呼び、似たような比喩(「壁と卵」)を村上春樹イェルサレム賞受賞スピーチで用いた。理想を求める人間理性の表現がユートピアであるとすれば、ディストピアとは、その理性の限界を表現する頽廃の様相である。そしてまた、それら人間営為の総体は、あるいはそれを一瞬のうちに破壊してしまう、まさに〈馬鹿げた〉(absurde)災厄(カタストロフィ)としか言えないような、圧倒的な物理的条件の上にかりそめに開いた徒花でしかないのではないか? 昨年の大震災に見舞われた東北地方のみならず、北海道もまたそのような地理的・地政学的な条件を抱えて、今日まで歩んできた地域である。今回の合同ワークショップでは、その東北・北海道の両支部よりパネリストを招き、日本・英語圏ベラルーシの各地域にまたがる文学を対象として、比較文学の方法を駆使した報告を行い、参加者全員でその実態に迫ってみたい。各自の問題意識を率直にぶつけ合い、活発な議論となることを期待したい。

《ワークショップ報告要旨》

関東大震災後のモダニズムユートピア的想像力       仁平政人(弘前大学
 本発表で検討対象とするのは、一九二三(大正一二)年の関東大震災以降の文学言説である。首都・東京に壊滅的な被害をもたらした関東大震災は、よく知られる通り広く「天譴論」的な文脈で意味づけられつつ、一方でしばしば既存の社会や文化、価値観などからの切断・解放の契機のようにも捉えられていた。そしてそれは、同時期の科学言説や前衛芸術の動向などとも連関しながら、広義に「ユートピア」的と言いうる言説・表象を多様なコンテクストにおいて導いていたと見られる。本発表では、川端康成をはじめとしたモダニスト作家の言説やテクストを中心として、関東大震災後(大正末〜昭和初頭)の文学におけるユートピア的な想像力の諸相と、その射程・問題性について考察することを試みたい。

カタストロフィの地としての「東北」
英語圏におけるそのイメージをめぐって―      伊藤豊(山形大学
 「東北」は近代日本において、未開と貧困を特徴とする後進地と一般にみなされることにより、西南地域や都市部と対立するところのディストピア的「異境」として、しばしば表象されてきた。一方で欧米では、そもそも東北が他の日本とは異なる独自の地域として問題視されること自体、比較的まれであったと言えよう。国際的には目立たぬ存在である東北が、海外からの関心を多少なりとも集めたのは、実のところ当該地域が戦争や自然災害といったカタストロフィを経験する際に限られていたのではないだろうか。本発表ではこうした問題意識に立脚しつつ、近現代の東北を襲ったカタストロフィの代表的な事例として、戊辰戦争、19世紀末から1930年代にかけての津波や飢饉、そして先の東日本大震災をとりあげ、これらの事件をめぐる英語圏での東北イメージについて考察してみたい。

チェルノブイリ事故とベラルーシの文学
放射能汚染地の描写を中心に―                     越野剛(北海道大学
 1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原子力発電所の事故は、ロシア・ウクライナベラルーシの三国において長期にわたり人間の居住に適さない広大な空間を作り出した。原発事故の悲劇はベラルーシの文学の主要なテーマのひとつになっており、チェルノブイリについて一言も触れたことのない現代作家を見出すほうが難しいほどである。本発表では、一般に「ゾーンzona」という言葉で呼ばれることが多い汚染地域の文学作品における描写を、ブイコフ、アレクシエヴィチ、レバノヴィチ、フェダレンカなど何人かの現代作家を取り上げて分析する。とりわけホームレス、脱走兵、老人、病者、難民、社会主義者などのマージナルな登場人物にとって、「ゾーン」が一種の安住の地、倒錯したユートピアとなりえている点に着目したい。