◇2012年度 日本比較文学会 北海道大会プログラム

2012年7月5日更新

〈開会の辞〉13:00   種田和加子(藤女子大学

■研究発表 13:05〜15:30
〈研究発表I〉
独歩と画・画家 ―「画」他を読む―
横田  肇(道都大学
〈研究発表II〉
芥川龍之介の中国風景探求 ―『支那游記』を中心に―
呉  佳佳(札幌大学大学院研究生)
〈研究発表III〉
魯迅の評価から見る井上紅梅の翻訳
張   倩(札幌大学大学院研究生)

  (休憩)
■講  演 15:45〜17:00
比較文学の再生―小林秀雄、あるいは文学研究における非対象性について―
日本比較文学会事務局長・日本大学教授 諸坂 成利
〈閉会の辞〉17:00  日本比較文学会北海道支部長 飛ヶ谷美穂子

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【発表要旨】

〈研究発表I〉
独歩と画・画家 ―「画」他を読む―
横田  肇(道都大学
 近代において、絵画を学び、興味を抱いた文学者は多い。国木田独歩(以下、独歩)も絵画や画家に対する関心をもち、その作品の随所で絵画や画家のことを描いた/書いた。
 長らく、日本において文学と絵画とはつながりをもち、近代においてもこのことに変わりはなかったのであるが、ただ、近代に入って画期的であったことがある。言うまでもなく、それは西洋の絵画、特に写生画や風景画の流入である。であるから、ここで言及する画とはひとえに西洋的な写生画や風景画を指し、画家とは洋画家のことであると了解されたい。
 独歩もまた、このような時代の申し子であったが、彼自身の資質と境遇とが相俟って、絵画への並々ならぬ興味・関心があった。幼少期から青年期を自然の多い土地で過ごし、自然・風景とそれを描くことに熱意をもち、満谷国四郎らの画家との終生にわたる親交があった。その一方、独歩は当時の画壇と画家に不満をもっていたことも確かであり、それは独歩が文壇と作家にもっていた不満と通じる。そして、独歩のこれらの要素が彼の作品の随所に反映されている。
 では、独歩が当時の画家と作家にもっていた不満とは何か。端的に言って、それは「対象」を「心の眼」でとらえないということである。そこで本論では、独歩と画・画家との関係をさぐるための第一歩として、「画」、「画の悲しみ」、「郊外」、「小春」等の記述からうかがえる画・画家に対する独歩のその批判的にして建設的とも言える態度について考察する。合わせて、独歩が範と仰いだワーズワースの詩、中でも「小春」等において具体的な言及があり、いわば独歩の自然・風景の受容とその表現における理念の形成にあずかったと言える「ティンタン寺院」に触れる。ここから、独歩の不満の出所とその解消の両方が見てとれる。合わせて、やはり独歩が影響を受けた画家であり、ワーズワースの親友でもあったコンスタブルの作品にも少しだけ触れる予定である。

〈研究発表II〉
芥川龍之介の中国風景探求 ―『支那游記』を中心に―
呉  佳佳(札幌大学大学院研究生)
 近代日本作家の一人である芥川龍之介は大正十(1921)年三月に、大阪毎日新聞海外視察員として中国に派遣された。彼が三月下旬から七月上旬まで、およそ四ヶ月の間に、上海、杭州、蘇州、揚州、南京、長沙、北京、天津などを遍歴した。帰国した後の四年間に、『上海游記』、『江南游記』、『長江游記』(原名は『長江』であった)、『北京日記抄』を連載して発表した。それから、1925年十一月に、以上の文章をもとにして発表されていなかった『雑信一束』をも加えて改造社より『支那游記』を刊行した。
 芥川龍之介が小さい頃から、中国古典文学と深い関わりを有していた。芥川にとって、この三ヶ月の中国旅行は、自分の文化的な深層にある、中国原風景の探究の旅とも言える。少年時代から中国古典文学の作品を多く読み、深い知識を持っていた芥川龍之介にとって、実際に中国に行って目の当たりにした現実は、古典書物を通して得られた「中国イメージ」とは大きな開きがあった。その場合、文化人の芥川はどのように反応していたのか、中国渡航前に得た「中国素養」というものが、彼の現実中国理解に如何なる役割を果たしたのか、本発表で考えてみたい。

〈研究発表III〉
魯迅の評価から見る井上紅梅の翻訳
張   倩(札幌大学大学院研究生)
 本発表は現在進行中の「井上紅梅の魯迅翻訳に関する研究」の一部である。日本では、名高い中国文学者である魯迅の文学作品を紹介し翻訳する人の中、未だに十分重視されていない人物がいる。それは中国風俗研究者・翻訳者の井上紅梅である。実に彼は外国における最初の『魯迅全集』の翻訳者でもある。それにもかかわらず、日本でも中国でもその人に関する研究が少ない。原因の一つは、魯迅の井上紅梅に対する評価があまりよくないとも考えられる。
 魯迅は友人への手紙の中で、井上紅梅の一般的な創作動向、姿勢について、評価していなかった。『魯迅全集』を翻訳する際、増田渉や佐藤春夫の訳文を参考しなかったことについて、魯迅は怒りを感じ「ひどい」評し、翻訳には「誤訳が多い」などと遠慮せずに酷評した。
 「誤訳」の基準は如何に設定するのか、人によって違うものであるが、本発表では魯迅の「翻訳理論」とは何かを念頭に置き、井上紅梅訳『故郷』を例に、1、明確な誤訳。2、解釈的な翻訳。3、魯迅のミスを「訂正する誤訳」という三つの角度から、原文との比較をもとに、魯迅が評価した増田渉と佐藤春夫の訳文と対照しながら、その誤訳の実態を探ってみる。

【講演要旨】

比較文学の再生―小林秀雄、あるいは文学研究における非対象性について―
日本比較文学会事務局長・日本大学教授 諸坂 成利
 比較文学研究は歴史的に、主として影響研究と対比研究によって構成されてきた。影響研究とは、作家がある(外国の)文学作品の影響を受けて自身の作品を書いた場合、その影響の痕跡を実証的に研究することであり、対比研究とは実証可能な影響関係がない場合に、ある仕方での類似性を根拠に行う研究である。対比研究の場合、作家自身が知り得なかったある文学的血縁を見出す場合があり、その意味で無意識的、また影響研究はその意味で意識的、と対比することが可能である。隣接性と類似性(ヤコブソンの言葉であるが)を想起させるこの影響と対比は、換喩と隠喩、接触と類似(フレイザーの「呪術の原理」の言葉であるが)とパラレルであり、言語(記号論)、呪術(文化人類学)、比較文学は影響関係なしに、正確に二つの方法をもっていたことになる。この二つは「ふれ」と「ふり」であり、拙著『中島敦「古譚」講義』において若干考察をしたが、そもそもこの二つはひとつの本質に至るための二つの方法である。比較文学は今日、これらの方法(アカデミズムからはかつて学問ではないと言われた)を見失っているがゆえに危機に瀕しているのではないか。またそもそも、比較文学の《欲望》はどこから生起してきたのか。これらの問題を前提に、小林秀雄ボルヘス等を援用しつつ、そしてComparative Mindについて言及しながら、私が考える《比較文学》について話をしたいと考える。

【講師紹介】

 諸坂成利(もろさか・しげとし)氏は1958年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程修了。早稲田大学助手、麗澤大学助教授を経て、現在、日本大学法学部教授、日本比較文学会常任理事・本部事務局長。専門は比較文学、日本近代文学英米文学。特に中島敦ボルヘスナボコフ、ギャスケル、ホイットマンなどの研究。著書『虎の書跡―中島敦ボルヘス、あるいは換喩文学論』(水声社、2004年)により、第9回日本比較文学会学会賞・第1回国際文化表現学会学会賞を受賞。また『中島敦「古謂」講義』」(彩流社、2009年)により、第6回国際文化表現学会学会賞を受賞。