◇2012年度 日本比較文学会 北海道研究会プログラム

2012年10月11日更新

総合司会 横田 肇
〈開会の辞〉14:00   張 偉雄(札幌大学

■研究発表 14:10〜15:40
〈研究発表I〉
葛西善蔵「贋物をさげて」から「贋物」へ ―トルストイ「光あるうち光の中を歩め」との関連を中心として―
張 雲雲(北海道大学大学院 博士後期課程)
〈研究発表II〉
伊井直行「草のかんむり」論 ―混交するジャンルと歴史―
川崎 俊(北海道大学大学院 修士課程)

  (休憩)

■〈比較文学比較文化 名著読解講座第6回〉 15:55〜16:50
換喩文学論
諸坂成利著『虎の書跡 中島敦ボルヘス、あるいは換喩文学論』『中島敦「古譚」講義』
井川 重乃(北海道大学大学院 博士後期課程)
〈閉会の辞〉16:50  日本比較文学会北海道支部長 飛ヶ谷美穂子

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【発表要旨】

〈研究発表I〉
葛西善蔵「贋物をさげて」から「贋物」へ ―トルストイ「光あるうち光の中を歩め」との関連を中心として―

張 雲雲
 葛西善蔵の小説「贋物」(『早稲田文学』、大正六・二)は、単行本『贋物』(春陽堂、大正一〇・一一)として出版される前に、「贋物をさげて」というタイトルであった。その変更は、「贋物」を解読する上で、一つの重要な手掛かりになる。従来の「贋物」論では、論述の焦点を「人道主義の言説」と「人間認識の虚偽性」という点に集中させている。榎本隆司は「原題のごとく、それと知らず『贋物さげて』行っての限定された滑稽譚に終わる」物語が、「『贋物』と改められた時、作品は書画骨董の世界を超えて、よりひろく人間認識に関わる視点で包括される」と述べている。この問題に関連して山本芳明は、「これまで、大正六、七年に発表された葛西の作品の多くが〈人道主義的言説〉を引用したり、それを暗黙の前提とする一種のパロディー構造を持っていることは十分に注目されてこなかった。(中略)葛西が少なくともこの時期、〈人道主義的言説〉を利用して、戯画として、あるいは結果として〈真〉の『人道派』を暗示するように作品を構築していたことは間違いないように思われる」と指摘している。しかしながら、テクストに繰返して言及されたトルストイの『光あるうち光の中を歩め』の生活の実践は、最後に失敗に終わってしまうということも見逃されてはならないのである。なぜトルストイのこの小説が繰返して言及されるのか。語り手はトルストイ文学におけるキリスト教徒の幸福な田舎生活が成金時代(成金時代は大正四年の初頭から始まり、大正九年の初頭に及んだもの。この時期において、貿易は発展する。正貨は流入。物価は上がる。――昭和六年七月二三日から一一月二〇日までの『時事新報』における「大正から昭和へ」との一節を参照。)の日本では空想に過ぎないということを語りたいのではないだろうか。本発表では、大正三年から大正六年までの葛西の書簡と日記を踏まえて、トルストイ文学に対する葛西の受容、『贋物』から見た『光あるうち光の中を歩め』に対する描き方への移植及び移植の失敗を中心として、成金時代の日本の農村の現実に即して、「贋物」の題名の変更の意味を読み直してみたいと思う。

〈研究発表II〉
伊井直行「草のかんむり」論 ―混交するジャンルと歴史―
川崎 俊
 戦後の日本文学は、グローバリズムと同時に進行したローカリズムの問題と共にあり続けたと言っても過言ではない。大江健三郎から平成以降の沖縄文学まで、後期資本主義の制度が、ローカリズムや権力と複雑に関係する場に新たな想像力の展開が見出され、多くの作品が生まれてきた。伊井直行(1953〜)もその系譜の中に位置づけることのできる作家である。
伊井は、一貫して企業における会社員やその仕事を文学がいかに表象するかという問題を追究し続けてきた。その成果が「さして重要でない一日」(1989年)などの小説作品であり、近年の「岩崎彌太郎 会社の創造」(2010年)「会社員とは何者か? 会社員小説をめぐって」(2012年)などの論考である。それと同時に企業城下町を舞台にした「悲しみの航海」(1986年)「濁った激流にかかる橋」(2000年)など、後期資本主義の影響と神話的なモチーフを接続して共同体の歴史を描く小説も残している。作品における歴史性とその相対化、ジャンルの混合といった観点から、中上健次笙野頼子など同時代の作家との繋がりを考えることも今後重要になるのではないかと思われる。
本発表では、伊井の第一作である「草のかんむり」(1983年)を取り上げる。1972年に邦訳が出版され、日本においても大きな影響を与えたコロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスの「百年の孤独」(Cien años de soledad,1967)との関係等から、本作品を捉えることを中心にしながら、後続の作品との関連についても分析する。それを通じて、これまであまり言及されたことのなかった作家の一面を明らかにし、同時代的な文脈に接続する中で、現代においてどのように伊井の作品を捉えることができるか検討する。前述した諸問題についても射程に入れつつ論じたい。

比較文学比較文化 名著読解講座第6回〉
換喩文学論
諸坂成利著『虎の書跡 中島敦ボルヘス、あるいは換喩文学論』『中島敦「古譚」講義』
井川 重乃
 諸坂成利は二〇〇四年に『虎の書跡 中島敦ボルヘス、あるいは換喩文学論』を刊行し、同年の比較文学会第九回学会賞、および国際文化表現学会第一回学会賞を受賞した。また二〇〇六年に開催された中島敦の会の講演会において「中島敦における《見る》ことについて」と題して講演を行い、その内容を加筆・修正し、二〇〇九年『中島敦「古譚」講義』として刊行した。
この二冊の内容を、中島敦における比較文学研究、と言い切るのは適切ではないだろう。例えば本書の中で、中島敦の「古譚」からキューブリックの『2001年宇宙の旅』が想起されているが、本書はこのような筆者のアクロバティックな想像力と、それらを「複眼的思考」(『虎の書跡』あとがき)を持って、比較しまとめ上げる展開の連続によって書かれている。
 さて、この二冊に共通することは副題にもある《換喩》というキーワードである。「《換喩》とは《隣接性》に基づく」(『虎の書跡』第一章)ものであり、「通常は部分によって全体を表わす《換喩》であるが、ボルヘス中島敦の場合、部分が全体をすべて飲み込み、《枯渇》させてしまう」(『虎の書跡』第一章)と論じている。本発表ではこの《換喩》というキーワードを軸にして、諸坂成利による、中島敦をはじめとしたテクストの「演奏」を読み解いていきたい。
 諸坂成利は「《比較文学》は常に、日本であれ古代ギリシアであれ、異なるものとの接点において生じてきたが、《影響》研究にせよ《対比》研究にせよ、要は目に見えないものを見ようとしてきたのである」(『中島敦「古譚」講義』あとがき)とし、また「直感と想像力をもって目に見えないbetweenを、《間》を見ようと試みること、その営為こそ文学であり、人類にとって失われてはならないものである」(同、あとがき)と述べている。私も「直感と想像力をもって」この二冊の《間》にあるものを見ていけたらと考えている。