◇2013年度 日本比較文学会 北海道大会プログラム(終了)

2013年6月17日更新(懇親会参加者募集)
2013年6月11日更新(ポスターアップロード)

総合司会 梶谷崇(北海道工業大学
〈開会の辞〉13:00   種田和加子(藤女子大学

■研究発表 13:05〜14:35
司会     韓然善(北海道大学・院生)
テレングト・アイトル(北海学園大学

〈研究発表I〉
萩原恭次郎とセルゲイ・エセーニン ―農村アナキズム詩のなかの生活と精神―
村田裕和(北海道教育大学旭川校
〈研究発表II〉
瀧口修造におけるウィリアム・ブレイク ―光の洗礼―
秋元裕子(北海学園大学
  (休憩)

■〈比較文学比較文化 名著読解講座第7回〉 14:45〜15:35
秋草俊一郎著『ナボコフ 訳すのは「私」 自己翻訳がひらくテクスト』
越野剛(北海道大学

■ 講演 15:45〜16:50
博覧会の時代と泉鏡花
種田和加子(藤女子大学

〈閉会の辞〉16:50  日本比較文学会北海道支部長 飛ヶ谷美穂子

■ 総会 17:00〜17:30



→発表要旨は「続きを読む」をクリック
【発表要旨】

〈研究発表I〉
萩原恭次郎とセルゲイ・エセーニン ―農村アナキズム詩のなかの生活と精神―

村田 裕和

 『死刑宣告』(1925年)でアバンギャルド詩のあらたな表現領域を開いた萩原恭次郎は、短い感想「「エセーニン」「ソボリ」「レンキチ」」(『太平洋詩人』1926年9月)のなかで、「生活と精神の実感の差異は、確かにその人間と人間の階級の位置をはつきりと知らせる」と述べたうえで、その「実感を最も深刻に知る人」として、自殺したセルゲイ・エセーニンの名前を挙げ共感を示していた。こののち恭次郎は、やがて第2詩集『断片』(渓文社1931年)に集められることになる詩を次々と発表してアナキズムの旗色を鮮明にする。しかしそれらの詩群からは、アナキズム詩を書くことを必然たらしめる恭次郎自身の「生活」がほとんど見えてこず、したがって「精神の実感」との差異は観測不能である。この宙に浮いた「アナキズム」ははたして何の表象なのか。
 恭次郎の詩にふたたび「生活」が現れるのはガリ版雑誌『クロポトキンを中心にした芸術の研究』(1932年6月)を創刊する頃からである。エセーニンが、「所詮、レーニンは私の偶像ではあり得ない。私は村を一番よく知つてをる。」(「帰郷」1924年/八田鉄郎訳)と歌ったように、恭次郎もまた「一番よく知つて」いる村を歌い始めた。マルクス主義への反発と郷土への親和性は、やがて彼を戦争協力詩へと押し流していく――とひとまずはいえるだろうが、1938年の死の直前までに詠まれた詩は実に多様であり、その詩的表象は十分に検討されていない。日本のアナキズム詩が、同時代の海外文学とどのような差異や連続性を抱えていたのかという問題自体、クロポトキンなどのアナキズム思想家に対する関心の高さと比べて論じられる機会の少ないテーマであった。本発表では、郷里の「百姓」たちに寄り添うように詠んだ恭次郎の詩とエセーニンの詩との「差異」を観測するところから具体的な検討を始め、日本における「アナキズム詩」の到達点=限界点に迫りたい。

〈研究発表II〉
瀧口修造におけるウィリアム・ブレイク ―光の洗礼―
秋元 裕子
 戦前戦後を通し、美術批評家として活躍したことでも知られる詩人瀧口修造(1903〜79)は、主にシュールレアリスムとの関連において論じられてきた。事実、瀧口は、大学時代の1920年代後半から積極的にシュールレアリスムを受容・紹介しており、戦前において、主として文通によってフランスのシュールレアリストたちとの親交を深め、この芸術思潮の理論を日本の美術界に根づかせようと苦心してきたのである。
 一方で、シュールレアリスム受容以前の芸術的遍歴に関しては、意外に言及されることが少ない。瀧口は少年時代から文学に関心を持っており、中学時代(旧制)において、石川啄木斎藤茂吉蒲原有明等の詩歌に心を奪われたものの、それらに対する耽溺は短期間で終わっていた。しかしながら、少年時代に出会い、大学の図書館でその原書に没頭したW・ブレイクは、瀧口にとって特別な存在だった。「瀧口さんはブレイクに一番影響をうけてるかもしれません」(大岡信瀧口修造の永久運動」、1991年)という証言から覗える如く、ブレイクへの関心は、生涯を通して瀧口から消えることがなかった。
 瀧口は、1926年7月の同人雑誌『山繭』に「六月の日記から」という随想風の散文を発表しており、その中でブレイクの詩を翻訳している(ブレイクからトマス・バッツに宛てた書簡に書かれていた詩)。この翻訳を通して、瀧口はブレイクの詩の中に「美しい光体」と「生きもののやうに動めいて」いる「詩体」を見出したのだが、それはどのようなことであり、瀧口に何をもたらしたのだろうか。本発表では、瀧口の作品分析を通してそのことを検証し、後のシュールレアリスト瀧口修造に連なる芸術的特徴の一端を明らかにしてみたい。

比較文学比較文化 名著読解講座第7回〉
秋草俊一郎著『ナボコフ 訳すのは「私」 自己翻訳がひらくテクスト』
越野 剛
 ナボコフはロシア語と英語の二言語(一部はフランス語)で創作を行いました。興味深いのはロシア語から英語に、あるいは英語からロシア語に作品の一部を自ら翻訳していることです。作者本人が翻訳したテクストはそれもまたオリジナルと見なすことができるでしょうか。秋草氏は複数の言語を丁寧に比較対照することによって、通常の翻訳者であればできないだろうような奇妙な改変の痕跡をいくつも発見しています。ナボコフの作品はしばしば難解なパズルに喩えられますが、こうした翻訳による改変は作者がテクストに仕掛けた見えるようで見えないトリックを可視化するヒントになります。英露間の翻訳という題材はかなり専門的ですが、議論されているテーマ(多言語作家と自己翻訳)には普遍性があります。移民文学や植民地文学などから比較の論点をたくさん出していただければと願っています。

〈講演〉
博覧会の時代と泉鏡花

種田 和加子
 2009年11月に金沢の泉鏡花記念館で、鏡花没後70年の特集があり、慶応大学三田メディアセンターに所蔵されている鏡花の遺品が展示された。なかでも目をひいたのは、彫金師であった父泉清次(天保13、1842〜明治27年、1894)が、1885(明治18)年のニュルンベルグ金工万国博覧会でメダルをうけていたことだった。清次と博覧会との関わりは、第二回内国勧業博覧会(明治14年)シカゴ万博(明治26年)などについて知られてはいたが、明治の殖産興業政策が金工品の輸出を促す時期に清次が遭遇していることを、本格的に踏み込んで調査・考察すべき時期にあると考える。ニュルンベルグ金工万国博覧会に、清次が金属器一点を出品していたことは、山本五郎の「金工万国博覧会報告」(明治18年)で確認済みである。ごく最近、清水三年坂美術館(京都)が、泉清次が手掛けた柴山細工飾り絵皿(鍔の象嵌)や、「鶴亀図大盃」を購入・展示するなどして、これまで目にすることのなかった清次の作品を見ることができるようになったことは、心強い。蒐集されたものから、清次の高度な技術や、輸出品としての意匠の全容が解明されかけてきている。ここにまずは参与する。同時に、鏡花作品に描かれた多くの工芸職人のありよう、作中で描写される工芸作品と博覧会などの金工技術の交差について考えたい。明治30年代「鶯花径」の「小さな紅宝石をついばんでいる鳥を彫刻した指輪」、「黒百合」の刃物仕掛けの指輪などは同時代の装飾文化との関連を見るべきであろう。「芍薬の歌」(大正7年)における翡翠の玉の作用は鏡花作品の中核をなすものと考えられる。鏡花の作品は馬琴的な近世文学への後退ではなく、近世的な要素とモダンな要素とのアマルガムとして、「モノ」がたりの多層的世界を構築していることを重視したい。それは、造形に生涯をかけた父清次の美意識をひきつぐものであり、その痕跡を跡づけ、モノと言葉の交響性を注視する。「博覧会の時代」に父と息子が居合わせたことから、「工芸」と「文学」、相互のジャンル形成史への展望も開く見通しである。