◇2013年度 日本比較文学会 北海道研究会プログラム(終了)

2013年11月5日更新

総合司会 井川重乃(北海道大学大学院 博士後期課程)


〈開会の辞〉14:00   テレングト・アイトル(北海学園大学

■研究発表 14:05〜15:20
〈研究発表〉
侯孝賢小津安二郎の映像表現 ―宙に浮く言葉と形式による主題展開という現代性―
井上 裕子
  (休憩)

■〈比較文学比較文化 名著読解講座第8回〉 15:30〜16:55
司会・コメンテーター   支部事務局長 中村三春
村上春樹柴田元幸著『翻訳夜話』『翻訳夜話2 サリンジャー戦記
平野  葵(北海道大学大学院 博士後期課程)
〈閉会の辞〉16:55  日本比較文学会北海道支部長 種田 和加子

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【発表要旨】

〈研究発表〉
侯孝賢小津安二郎の映像表現
―宙に浮く言葉と形式による主題展開という現代性―

井上 裕子
 言葉に依存しない表現方法として、映画にはモンタージュやクローズアップをはじめ多様な映像技術があり、それらを通じて映画史の中で積み上げられてきた映画の文法が、映像作家から鑑賞者へと約束された伝達事項を表現する。一方、そのような文法に反し、スクリーンで展開される映像の意味伝達において鑑賞者に違和感や不可解さを生じさせる作品はいわゆる現代的な映画とみなされるだろうが、小津安二郎の代表的な作品は、イマジナリーラインを無視した切り返しのショットをはじめ、鑑賞者が違和感を覚える特異な映像表現について今なお議論が交わされている。
 1989年に『悲情城市』でヴェネチア映画祭グランプリを受賞した侯孝賢は、その映像スタイルが小津のものと似ていると批評されてきた。だがそれらの映像表現も、台湾の政治的、社会的面から語られることが多く、小津と共通すると思われる現代性については論じられてこなかった。
本発表では、二つの項目について両作家で共通する映像表現を取り上げ、その現代性がどのように表現されているかを論じたい。一つ目は小津の「言葉を繰り返すだけの会話」と侯の「発声のない身振りとその後の字幕画像」である。小津の方は言葉が過剰にあるが侯の方は言葉がない。この二つの表現はどちらも画面において台詞となる言葉が意味を持たされずに宙を漂っているのである。これはトーキー映画の本質的な文法である映像と音声の同期性に反するものではないだろうか。
 二つ目は、小津にも侯にも「形式の反復」が見られる点である。鑑賞者はショットが形式的であることに違和感を覚えるのだが、小津も侯も形式を反復させ、その内容の変化によって実は自身の言いたいこと、つまりテーマを語っているのである。映像は解釈の自由度が高いメディアであるが、形式を反復させることによって言葉に依存することなく、意味を伝達することが可能となるといえる。以上の二項により両作家の現代性にアプローチしたい。

比較文学比較文化 名著読解講座第8回〉
村上春樹柴田元幸著『翻訳夜話』『翻訳夜話2 サリンジャー戦記
平野  葵
 小説家である村上春樹は、アメリカ文学の和訳を数多く手がけると共に、自身もまた自らの著作を様々な他言語に翻訳される立場でもあり、また、処女作については英語で書いたあとで日本語に翻訳したという、「自己翻訳」を行った作家でもある。村上と、翻訳家であり村上の翻訳作業にも関わった柴田の対談は、イディオム、文体、直訳と意訳などの翻訳作業における実際的な問題から、テクスト解釈や、作家個人や読み手あるいは時代への意識といった、翻訳という枠にとどまらない問題を孕んでいる。また、『翻訳夜話』には、村上と柴田が同じ作品をそれぞれの方法で訳したレイモンド・カーヴァーポール・オースターの短編が収録されており、巻末に収められた英語のオリジナル・バージョンと併せてこれらの比較検討を深めることも、比較文学の見地からは有用であると考えられる。また、ナボコフや亡命文学の話題から発展して、重訳の問題についても一部で触れている。これらから読み取れるのは、村上の態度が翻訳・創作問わず、一貫してテクストそのものと読み手の解釈の自由とを尊重している点である。村上春樹という、翻訳する/される作家の発言から、様々なレベルにおける翻訳のありようを探りたい。