◇第3回 比較文学研究会 プログラム(2014年3月29日開催)

2014年2月4日更新(総合司会変更)

〈講師紹介〉
2014年2月2日公開

日本詩歌の伝統―七と五の詩学

日本詩歌の伝統―七と五の詩学

翻訳の方法

翻訳の方法

〈プログラム〉
総合司会 横田 肇
【開会の辞】(10:00)  
北海道支部長 種田和加子
【研究発表】(10:05―12:30)
司会 寺山千紗都・平野葵
〈研究発表1〉
英国使節団のみた乾隆帝―マカートニー使節団の記録より―
熊谷摩耶(東北大学大学院博士後期課程)
〈研究発表2〉
富士山と明治末期の来日外国人―女性作家フレイザーと写真家ポンティングを中心に―
矢島真澄美(東北大学大学院博士後期課程)
〈研究発表3〉
村山知義の戯曲における〈少年少女〉―ドイツから日本へ、そして朝鮮へ―
韓然善(北海道大学大学院博士後期課程)
◇昼食休憩(12:30―13:30)◇

【講演】(13:30―14:35)  
講師紹介 テレングト・アイトル
「詩」の発明―『新体詩抄』に至る道―
川本皓嗣東京大学名誉教授・国際比較文学会名誉会長)

【ワークショップ】(14:45―17:25)
テーマ《翻訳》
〈ナビゲーション&パネリスト紹介〉 
司会 佐藤伸宏東北大学
〈報告1〉
翻訳研究(トランスレーション・スタディーズ)のアプローチによる翻訳言説の一考察   
佐藤美希札幌大学
〈報告2〉
翻訳の観点からの日本モダニズム文学―翻訳者堀口大学の役割―
大村梓(東京工業大学非常勤講師)
〈報告3〉
シェイクスピアに於けるastrology 概念とその翻訳―演劇言語の翻訳について―
田中一隆(弘前大学
〈総合討論〉

【閉会の辞】(17:25)  
東北支部長 伊藤豊   
(閉会17:30)

発表要旨・趣旨は「続きを読む」をクリック
【発表要旨】

〈研究発表1〉
英国使節団のみた乾隆帝―マカートニー使節団の記録より―
熊谷摩耶(東北大学大学院博士後期課程)
 1792 年9 月21 日、英国のスピトヘッドより、清朝治下の中国との貿易打開および市場拡大を目的とした初の外交使節を乗せた船が出帆した。それは、マカートニー(George Macartney,1737-1806 )を大使とした、総勢95 名のマカートニー使節を乗せた船であった。使節は1793 年9 月14 日に皇帝の避暑地である熱河の離宮にて、清朝六代皇帝乾隆帝(1711-1799、在位1735-1795)との謁見がかなったものの、使節側が三跪九叩頭の礼を行わなかったことや、そもそも中国側が外交を行う姿勢を有していなかったこともあり、あえなく外交面での目的達成はかなわず帰国することになった。しかし、帰国後に出版された団員らの日記や著作に記された中国情報は、その後の西欧諸国における中国イメージに影響を与えるものであった。
 当時の西欧諸国において中国情報をもたらしていたのは、主に明代より布教活動を行い続けていたイエズス会士らであり、それは西欧諸国の美術や哲学などに幅広く影響をもたらしていた。しかし、中には中国をあまりに礼賛し続けるイエズス会士の姿勢に疑問を抱く者もいたが、中国事情への興味は依然として高いままであった。そのような中、マカートニー使節が持ち帰った中国情報が歓迎されたのは想像に難くない。
 マカートニー使節が記した内容は交渉の様子をはじめ、中国の食事などの習慣、風俗、法律など多岐に渡っているが、本発表では当時の中国を統べる重要な人物であり、団員らの関心が高かった、乾隆帝に関する言及を検討する。団員らは乾隆帝の姿を通して、皇帝の姿かたちという表面的な記述だけではなく、英中外交の行く末や中国社会の性格等を導き出そうと試みていた。検討対象としては、使節の中でも主要な役割を果たした人物、およびその日記もしくは著作の影響が大きかった大使マカートニー、副使ストーントン、機械係バロー、画家アレグザンダー、侍従アンダースンの5 名による記録を取り上げる。

〈研究発表2〉
富士山と明治末期の来日外国人―女性作家フレイザーと写真家ポンティングを中心に―
矢島真澄美(東北大学大学院博士後期課程)
 1908 年、雑誌『カントリー・ライフ』に掲載された記事「聖なる日本の山」は、英国公使夫人であり作家であったメアリー・クロフォード・フレイザー(1851-1922) の文章と、英国人写真家ハーバート・ジョージ・ポンティング(1870?1935)の撮影した写真によって構成されている。本発表では、この富士をテーマとした記事を中心に、明治末期の来日外国人による日本に対する見解と、その記事が読者に許した解釈を明らかにすることを目的とする。
 まず、フレイザーの文章とポンティングの写真の特徴を分析する。フレイザーは、富士山と自然を比喩や擬人法を用いて描写し、富士山頂を神聖で特別な場所とした。他方、ポンティングの写真には、西部開拓時代の写真家ティモシー・オサリヴァン(1840-1882)による表現方法との類似点があった。それは、撮影者の視点の位置設定の工夫、光の使い方、鮮鋭性のある線の描写である。富士を幾度も訪れたポンティングの視線は富士周辺の自然に向けられていた。フレイザーとポンティングの富士に対する視点は必ずしも常に一致していたわけではなかった。
 けれどもこのような二人の富士に対する見解の相違は、バジル・ホール・チェンバレン(1850-1935)が訳した万葉集の「富士の山を詠む歌一首」によって結びつけられる。たとえば、貞観大噴火を詠んだ歌の一節「富士の高峰」は写真のタイトルとなり、噴火によってできた富士を含む自然の風景を写し出した。その写真に相当する文章ではマグマが蓄積し山頂を持ち上げるという自然の動きが描かれた。写真と文章はそれぞれに「富士の高峰」とその歴史を示したのである。このように写真と文章が照らし合わされ、富士の様々な側面が明らかとなり、風景は多角的に示された。また、見えない自然の動きを描写することで深みが生まれ富士を含む風景は立体的に提示された。
 以上のことから、文章は読者に想像させ、写真は読み解かせる役割を担っていたと考える。その結果、この記事は、ただ風景を紹介するのではなく、読者に対し、風景を解釈させることとなった。視覚的情報を含んだ記事の考察は、20 世紀初頭の欧米における日本観の形成に与えた影響の一端を示す一歩となるだろう。

〈研究発表3〉
村山知義の戯曲における〈少年少女〉―ドイツから日本へ、そして朝鮮へ―
韓然善(北海道大学大学院博士後期課程)
 村山知義(1901 〜 1977)の芸術活動を一言で定義付けるのは容易ではない。しかし1923年にドイツから帰国後の約10 年間は、村山の芸術活動の全盛期と言える。この時期における彼の活動は一見美術が主流のようだが、1925 年に「マヴォ」を脱退後、小説集『人間機械』(1926)や戯曲集『スカートをはいたネロ』(1927)を発表し、美術の他にも、文学、演劇などジャンルを横断する活動を展開した。
従来の研究においては、アヴァンギャルドからプロレタリア芸術活動へと傾斜していく村山の活動の変化には注目しているものの、当時の小説や戯曲については本格的に論じていない。本発表では、プロレタリア演劇へ変化して行く過程に着目し、1931 年に発表された戯曲について考察する。この年に発表された戯曲には、社会主義リアリズム的作風が共通するが、特に不良少年少女が登場するものが多い。例えば、「勤労学校」、「大悲学院の少年達」、「子供をめぐる」が挙げられる。この作品群には、学校、劇場、工場などの閉鎖された空間が設定されており、社会に抵抗する身体/従順する身体をめぐる問題が通底している。そしてドイツやソビエトで盛んであったアジプロ演劇(アジテーションプロパガンダ)と深く関わり、上演において、演劇に映画や舞踊を融合し、既存の演劇形式を覆す手法も多い。またそれぞれの戯曲における不良少年少女の問題は、同時期の日本の文脈にも繋がるものであり、そこには作家自身が時代に照応する面がある。さらに注目したいのは、これらの戯曲は、同時期の在日朝鮮人の演劇運動とも深く結びつく。1930年前後の日本におけるアジプロ演劇の受容のされ方に着目しながら、村山の演劇を媒介として、ドイツ演劇から日本の演劇へ、そして朝鮮の演劇へと身体性の要素が連続していく様相を考察する。

【講演】

「詩」の発明―『新体詩抄』に至る道―
川本皓嗣東京大学名誉教授・国際比較文学会名誉会長)
 最近亡くなったイギリスの歴史家エリック・ホブズボーム (Eric Hobsbawm) の『伝統の発明』The Invention of Tradition(Terence Ranger と共編著、Cambridge UP, 1983)によれば、ロイヤル・ウェディングなど「英国王室の盛儀ほど古めかしく、大昔からあったように思われるものはない」。だが実は、「いま見るような形では、それらはせいぜい19世紀の後半から20世紀にかけて作られたもの」に過ぎない。「古そうに見える、あるいは古いと称する『伝統』には、ごく歴史の浅いもの、ときには『発明(捏造)』さえされたものが、少なくない」という。伝統的と呼ばれる日本の行事や芸能など(たとえば「武士道」)にも、似たような例は、いくらもありそうだ。

過去2世紀を扱う歴史家にとって実に面白いのは、近代世界の絶え間ない変化や革新と、少なくともその新奇な生活の一部を、昔から少しも変わっていないものに仕立て上げようとする努力とのコントラストである。(p. 2)

 急激な「近代」の襲来に戸惑い苦しんだのは、かならずしも非西洋世界の人間ばかりではない。みずから「近代」を生んだ西洋の人々もまた、周囲の事物がたちまち一変するという不安な環境のなかで、せめてささやかな精神の安定を確保するために、たとえ作り物にせよ、過去の一部がまだ温存ないし継続されているという感覚を味わいたいと望んだのだ。
 そして、この「伝統の発明」と裏腹の関係にあるのが、性急な「近代」化の要請にこたえるための「過去の仕立て直し」である。

新しい情況のもとで、古い用法のリフォーム(改造)が試みられた。古いモデルが新な目的に合わせて、転用されたのだ。(p. 5. 邦訳はすべて川本)

 見慣れない新奇なものを、あたかも(部分的には)昔からあったもののように仕立て上げることと、あらたに新奇なものを作り出すために、昔からあったものを仕立て直すこととは、見かけの「古さ」と「新しさ」というコントラストにもかかわらず、心理的にも、実際の手続きの上でも、ほぼ並行的な現象なのだ。
 近代文学史ではつねに筆頭の位置に据えられながら、いまだに評価が定まらない『新体詩抄』(明治15年)が近代詩の確立に果たした役割について、こうした「古いモデルの転用」、言い換えれば「使える過去の加工」という観点から、明治初期以来試みられた翻訳詩の形式・文体上の模索のあとを振り返りつつ、再評価を試みたい。

【ワークショップ】
テーマ《翻訳》

《企画の趣旨》
司会 佐藤伸宏東北大学
 周知のごとく近年の翻訳に関する理論的研究は目覚ましい進展を見せている。従来の翻訳論の基軸とされていた所謂等価性の原理を緩やかに解きほぐしながら、翻訳行為の背景をなす社会的文化的コンテクストをも周到に視野に入れる中で、翻訳の成立する場を柔軟に多元的に照射する近時の翻訳研究が、翻訳テクスト自体の分析にも大きく裨益するものであることは言うまでもない。この「翻訳」ワークショップでは、そうした翻訳研究の進展を踏まえつつ、翻訳行為・テクストをめぐる諸問題について多角的な検討を加える。3名のパネリストの扱うテーマは多岐に及ぶが、そこに取り出される種々の論点を発端として、フロア全体で活発な議論が行われることを期待したい。本企画が、ワークショップという形式のもとに、総合討論における様々の意見交換をとおして改めて翻訳に関する多様な問題が開かれる端緒となることを願っている。


《ワークショップ報告要旨》

〈報告1〉
翻訳研究(トランスレーション・スタディーズ)のアプローチによる翻訳言説の一考察       
佐藤美希札幌大学
 翻訳研究/翻訳学(トランスレーション・スタディーズ― TS)は1980 年代以降の「文化論的転回(cultural turn)」(Bassnett and Lefevere 1998)や2000 年代の「社会学的転回(sociological turn)」(Wolf and Fukari 2007)を経て、テクスト変換や等価性よりむしろ社会や文化のシステムで作られる翻訳のあり方に着目し、原作からの「歪曲」が生じる社会文化的メカニズムや翻訳受容を下支えする背景を主題化する傾向を強めている。
 本発表は、こうした翻訳のコンテクストを重視するTS のアプローチに依拠し、主として翻訳書評や翻訳論などの翻訳言説を考察することによって、現在の翻訳文学受容を構成する文化的/社会的なメカニズムの一端を明らかにすることを目的とする。旧来の翻訳論においては、原典志向・起点文化志向とも言える翻訳観が数多く生産されていたとともに、書評においては(翻訳書の書評でありながら)翻訳のあり方そのものへの言及はそう多くはないという状況があった。それに対し、特に新訳出版ブームが見られた2000 年代以降の翻訳言説には、そうした旧来の翻訳言説とは根本的に異なる翻訳観が表明され始めており、注目に値する。本発表では特に英米文学の翻訳をめぐる言説に絞り、過去の翻訳言説との比較も踏まえながら、現在どのような翻訳観が示され、過去のそれといかに異なっているのか、さらにその変化を生み出した背景とはいかなるものかを考察する。
 現在どのような翻訳が求められているかを社会文化的な視座で考察することは、外国文学受容のあり方を現状に即して再検討することでもあるだろう。本研究がその一助となるよう、考察を試みたい。


〈報告2〉
翻訳の観点からの日本モダニズム文学―翻訳者堀口大学の役割―      
大村梓(東京工業大学非常勤講師)
 明治維新後、西欧文学の翻訳は日本人の知的渇望を満たすために、次々と行われた。そして江戸文化の影響下から近代化への過程において、翻訳文学は近代日本人の心性を育む上で非常に重要な役割を果たした。本発表は1920、30 年代に隆盛を極めた日本モダニズム文学に、フランスモダニズム文学が翻訳を通して与えた影響について、翻訳者堀口大学の役割に焦点を当てて分析を行うものである。これまで日仏モダニズム文学の影響関係は主に作品の比較を通して明らかにされてきた。本研究では視点を変えて、多くのフランスモダニズム文学の翻訳者堀口の役割と、当時の翻訳を巡る文壇でのメカニズムを明らかにする。
 特にフランスモダニズム文学の代表的作家であるポール・モーランに注目する。堀口は日本文壇におけるモーランの最大の理解者であり、彼の作品のほとんどは堀口訳である。彼が紹介するまで(1922 年)モーランは日本文壇では無名であったために、日本でのモーラン像は堀口の翻訳テキストによってほぼ作り上げられたと言っても過言ではない。今日モーランは日本モダニズム文学のモデルのように日本文学史において認識されているが、そこにおける堀口の訳語の恣意性を指摘する声も少なくない。実際モーランはフランス本国においては、モダニズム作家としてのみならず社会批評家としても評価されている。しかし日本においては、モーランはもっぱらモダニズム作家としか認識されていない。こういったモーラン像の差が生まれた背景には、堀口がより実験的な作品を選んで翻訳した、ということが言えるだろう。アンドレ・ルフェーブルは翻訳が、訳者の意図や訳文の属する文化価値を反映することにより、新たに書き直される可能性(rewriting)について指摘している。本発表では、日仏テキストの比較分析、及び堀口翻訳テキストへの読者(批評家・文学者)の反応を分析することにより、日本での堀口によるモーラン像の形成について検証する。
 二つの世界大戦の間に挟まれた激動の時代に日仏モダニズム文学の橋渡し役として活躍した、翻訳者堀口大学の視点を通して見ることにより、明治維新後の日本における翻訳の文化史の知見を広げる目的を持っている。


〈報告3〉
シェイクスピアに於けるastrology 概念とその翻訳―演劇言語の翻訳について―                     
田中一隆(弘前大学
 近代的な宇宙観は「占星術」(astrology)的な宇宙観からの離脱をもって成立すると一般的には考えられています。しかし、初期近代の劇作家・詩人であるシェイクスピアに於いてはいわゆる「天文学」(astronomy)と「占星術」(astrology)の概念が未分離で、彼の語彙では、現在とは逆に"astronomy"がastrology の意味で用いられています。
 astrology は近代的で自然科学的な宇宙観としてはすでにその意味を失ってしまいましたが、英語の語彙の生成と消滅に大きな意味を持ってきましたし、現在でも持っています。意外に知られていないのは、われわれがごく普通に読んだり書いたりしている英語の概念が、占星術に起源を持つ場合が少なくないということです。"disposition" "climate" "aspect"等はその代表的なものですが、本発表ではおもに、シェイクスピアの使った"disposition"という言葉に注目しながら、astrology を母体とする概念が、どのようにして誕生・成長し、消滅していったか、その概念史をたどりながら、古い宇宙観と新しい宇宙観の相克と対立が主題となる場面の"disposition"の概念の演劇的な意味について、若干の考察を加えてみたいと思っています。
 このセミナーには「翻訳」という共通テーマが与えられておりますが、初期近代演劇に現れる、宇宙像の緊張を伴った大転換に深く関わる概念がどのように翻訳され得るか、あるいはされ得ないのか、という翻訳可能論や不可能論を論点にするつもりはありません。翻訳不可能性と可能性の議論はともすれば同じ主張の繰り返しに陥ってしまうからです。そこで本発表では、翻訳不可能性(あるいは可能性)ではなく、時代背景的な緊張と共に、演劇的な緊張も孕んだ概念の表象可能性を(翻訳も視野に入れながら)論じてみたいと思っております。とくに、"disposition"概念を当時の観客はどのような意味で理解し、その理解は"disposition"という言葉を発している登場人物の理解と一致していたか否か、おもに『リア王』と『ジュリアス・シーザー』を題材に論じてみたいと思っています。