◇2014年度 日本比較文学会 北海道大会プログラム

2014年10月19日公開

司会 堀内京・平野葵・井川重乃(前半)
司会 梶谷崇(後半)
〈開会の辞〉13:00   テレングト・アイトル(北海学園大学

■研究発表 13:10〜15:30
〈研究発表I〉
愛を語る男たち
 ―芥川龍之介「開化の殺人」「開化の良人」について―
高啓豪(北海道大学大学院博士後期課程)
〈研究発表II〉
太宰治と中国古典
 ―桃源郷を描くこと―
澤辺真人(北海道教育大学大学院修士課程)
  (休憩)
〈研究発表III〉
〈記録写真〉の美学
 ―瀧口修造の場合―
秋元裕子(北海学園大学非常勤講師)
  (休憩)

■ 講演 15:40〜16:50
内モンゴルの国民的詩人サイチンガ(1914-1973)
 ―日本留学とその文学のエッセンス―

テレングト・アイトル(北海学園大学教授)
  (休憩)

■〈比較文学比較文化 名著読解講座第10回〉 16:55〜17:40
小林洋介著 『〈狂気〉と〈無意識〉のモダニズム戦間期文学の一断面』
寺山千紗都(北海道大学大学院博士後期課程)
〈閉会の辞〉17:40  日本比較文学会北海道支部長 種田和加子

■ 懇親会 18:30〜20:30

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【発表要旨】
〈研究発表〉

愛を語る男たち
 ―芥川龍之介「開化の殺人」「開化の良人」について―
高啓豪(北海道大学大学院博士後期課程)

 芥川龍之介の開化物と呼ばれる作品群は、古き良き時代へ感傷的な眼差しで振り向く「雛」を除き、題材に男女関係を求める作品がほどんどである。今回論じる両作は、開化物の中でも恋愛結婚といった男女関係を特化して論じる短編小説である。従妹甘露寺明子に思いを寄せるが破滅した結果を迎えるドクトル北畠の話と、「愛のある結婚」をモットーに掲げるが婚姻に失敗した紳士三浦直記の話から構成され、明治時代の男女の恋愛結婚の様相を遺書、日記、回想話といった媒介物を通して語られる。多種多様なナラトロジーを開示している両作品は、男性の視点から「恋愛」を見るという共通点が挙げられる。
 西洋医学を学ぶドクトル北畠がしたためる一人称告白体の遺書がメインな内容となった「開化の殺人」は、漱石の「こゝろ」を彷彿させる。エゴと良心に苛まれる末の告白、明治初期の世相を多く取り入れた描写、及び探偵小説じみた内容はまるで「開化」が「殺人」の引き金を引いたように読み取れる。明治時代の自由恋愛が生じる不自由というパラドックスが「開化の殺人」の論議すべきところだと思われる。
 「開化の良人」は、美術品に触発された老紳士=語り手本多子爵から、彼のフランス留学で知り合った紳士三浦にまつわる思い出話を書き手と思われる「私」が書き記すという屈折なナラトロジーを持つ短編小説である。本作の描写は特に明治期のアートシーンに重みを置き、美術品により様々なレトリックがなされる。例えば三浦の書斎に飾るナポレオン一世の肖像画からその不倫な妻ジョセフィーヌが連想され、後の三浦の妻の行為につながるなど、美術や歴史の知識を駆使したギミックを取り入れたテクストが特徴的である。
芥川開化物の両作品から見る明治の男性が恋愛を語るという特異なナラトロジーを皮切りに、開化期の異文化受容と変容、明治初期の社会風俗、制度など論考を進めたい。

太宰治と中国古典
 ―桃源郷を描くこと―
澤辺真人(北海道教育大学大学院修士課程)
 戦時下において古今東西の物語を盛んに翻案した太宰治は、戦後「苦悩の年鑑」(1946年6月)と「冬の花火」(1946年6月)にて、「自給自足のアナキズム風」の「支那桃源郷」への関心を繰り返し示した。太宰は戦後という新たな時代において、多彩な様相を呈するアナキズムの中でも、陶淵明の「桃花源記」(420年頃)に由来する仙境での生活の価値を提示したのである。これはのちの「斜陽」(1947年7-10月)におけるかず子の「支那ふうの山荘」での生活にまで継がれているモチーフである。一方で、それは作中で「みんなばかばかしい冬の花火」、「ままごと遊びみたいな暮し方」と評されたように、やはり現実と乖離した夢想の地に過ぎず、先行研究では戦後批判の文脈で解釈されてきた。
 しかし、直接言及した資料はなくとも、「帰去来」(1943年1月)と併せて、太宰が遅くとも戦時下には既に淵明に関心を寄せていたことが窺え、太宰の桃源郷モチーフは「清貧譚」(1941年1月)と「竹青」(1945年4月)にその片鱗を覗かせる。「清貧譚」「竹青」はともに蒲松齢の『聊斎志異』(1680年頃)所収短編の翻案であり、物語の筋はそれをほぼ踏襲しているが、現実と理想郷の境界がより明確に提示され、その往来における葛藤が強調されている。素材が明示されていることもあり、比較研究は少なからず行われてきたが、戦時下から戦後に連なるその時代的文脈における表象は十分に検討されていない。
 本発表では、まず太宰文学における中国文学の翻案作品とその素材との異同を整理し、同時代のアナキスト石川三四郎の「土民思想」に触れつつ、そこに作用する桃源郷モチーフを明らかにする。そして、戦時体制下の大東亜共栄圏や、戦後の民主主義国家といったいわゆるユートピア建設が謳われる最中に描かれた「桃源郷」の表象を探ることで、戦時下から戦後に連なる太宰の問題意識の一端に迫りたい。

〈記録写真〉の美学
 ―瀧口修造の場合―
秋元裕子(北海学園大学非常勤講師)
 詩人・美術批評家として、戦前戦後に亘り日本の詩・美術・写真・映画・評論・舞踏・音楽などに大きな影響を与えた瀧口修造(一九〇三〜一九七九) に対して、多分野の批評家が様々な観点から賞賛を捧げているが、その美学とも言える芸術理念の詳細な内容については大部分が未検証である。
 一方、瀧口の芸術理念を考察する上で、彼にとっての一九三〇年代の重要性が指摘されている(近代思想史研究者小沢節子・美術研究者島敦彦等)。三〇年代の瀧口の芸術・批評活動を検証することが、彼の芸術全体を俯瞰する上で重要であることは否めない。
瀧口は昭和初期において、所謂シュールレアリスム風の詩を書いたことで詩人として知られるようになったのだが、「絶対への接吻」(『詩神』、一九三一年一月)という作品を最後に、そのような自動記述風の実験を止めている。その詩的実験に取って代わるかのように、三〇年代を通してシュールレアリスムの美術に関心を寄せ、就中物体(オブジェ)における影像(イメージ)に魅了されており、それと同時に写真の影像について関心を深め、写真における記録という、いわばリアリズムの方法を重視していた。
 本発表では、一九三〇年代の日本の芸術的傾向について、芸術思潮、媒体(メディア)、思考法の三点においてそれぞれ特徴を見出す。そして、芸術の上で時代的な影響を受けつつも、同時期瀧口の主張していた精神と物質との「精神弁証法」(瀧口修造シュルレアリスムとは何か?」『蝋人形』一九三七年一〇月・一一月・一九三八年一月)が〈記録写真〉とどのように結ばれているのかを、彼の写真批評を通して検証し、その独自性と重要性を明らかにしたい。

〈講演〉

内モンゴルの国民的詩人サイチンガ(1914-1973)
 ―日本留学とその文学のエッセンス―
テレングト・アイトル(北海学園大学教授)
 三つの地域(モンゴル・日本・中国)を移動して、六つの体制(清朝崩壊後の北洋軍閥政府、中華民国、戦前日本、蒙古聯合自治政府モンゴル人民共和国、中国人民共和国)を生きてきたサイチンガは、日本留学中、文学創作を始める。日本語を通じて日本文学ないし欧米文学の影響を受け、ロマン主義文学に共鳴し、とりわけ内省(省察)、心象風景、啓蒙、郷愁、栄光時代への崇拝、愛と讃歌など多岐にわたるモチーフの詩作をする。一方、中華人民共和国の建国以降、彼は社会主義中国共産党謳歌し、作品が高く評価され、中国作家協会の理事になるが、「文化大革命」に強制労働させられ、胃癌でなくなる。その作品は大まかに前期と後期に区分され、政治・イデオロギーにおいては激しく矛盾し、二つに引き裂かれているが、それにもかかわらず、詩人はまるで一個のシンボルになったようで、多くの人々に愛読され、批判の声が囁かれながらも言祝がれてきた。今年はサイチンガ誕生100周年にあたり、さまざまな形で官民とも記念活動を行なっている。現に詩人の故郷の中学校の記念朗読会でも、その相反した作品が声高に歌われ、人々はその詩によるイデオロギーの異種混合か複合性を敢えて受け入れてその詩を愛読しているように見受けられる。ところで、その体制とイデオロギーは別として、その相反する二つの作品群の根底には、何があったのであろうか、彼の文学の源泉と、その詩作の生成原理は何であろうか。これらの問いかけを意識しながら、その文学のエッセンスを考えたい。

比較文学比較文化 名著読解講座第10回〉

比較文学比較文化 名著読解講座第10回〉
小林洋介著 『〈狂気〉と〈無意識〉のモダニズム戦間期文学の一断面』(笠間書院、2013年)
寺山千紗都(北海道大学大学院博士後期課程)
 理性的近代への賛美としてあったモダニズムではなく、近代的理性への懐疑・抵抗(脱近代・反近代)としてあった〈モダニズム〉を、戦間期文学のなかに発見していく、というのが本著作を通しての自覚的問題意識である。
 心と身体が、近代の、特に自然科学的視線によって分断された様子を踏まえ、その人間存在の二元論的把握への懐疑や、分断されたものを再び〈心身〉として結んでいく様子を、特に芥川龍之介『河童』や江戸川乱歩『D坂の殺人事件』、『心理試験』を取り上げた章を中心として詳しく参照していきたい。