◇2015年度 日本比較文学会 北海道大会プログラム

【プログラム】
司会 中村三春

〈開会の辞〉13:30   テレングト・アイトル(北海学園大学

■ 研究発表 13:40〜15:10

〈研究発表I〉
ロシア文学における日露戦争の記憶
(「日本」の表象を中心に)
イーゴリ・ボトーエフ(ブリヤート国立大学東洋学部准教授)
〈研究発表II〉
時代の響き:詩における恐怖の芸術表現
 ―田村隆一表現主義の詩の平行比較―
陳 セン(北海道大学大学院博士後期課程)
  (休憩)

■ 講演 15:30〜16:30

明治の女性文学とヨーロッパ美術
 ―大塚楠緒子を中心に―
 
平石典子(筑波大学准教授)

〈閉会の辞〉17:00  日本比較文学会北海道支部長 種田和加子

■ 懇親会 18:00〜20:00

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【発表要旨】
〈研究発表〉

ロシア文学における日露戦争の記憶
(「日本」の表象を中心に)

イーゴリ・ボトーエフ(ブリヤート国立大学東洋学部准教授)

 日露戦争は、日露関係ばかりではなく、全世界の歴史の中で特別な位置を占め、現在に至るまで社会の動きに非常に大きな影響を与えつつある。この戦争は、歴史上の単なる出来事のレベルを超え、ロシア社会の全階層内の、日本に関するイメージの成立にとって重要な要因となった。それには2つの理由が考えられる。第一には、日露戦争は、ロシアにとって日本との初の武力衝突でありながら、ロシア軍の敗北で終わった戦争にもなった。概して、戦争敗北が原因となった侮辱と憤慨の方がより強く国民の記憶に残る。しかも、当時にロシア人にとって経済的後進国であった「小国」は全世界の前でロシア帝国に恥をかかせた。
 第二には、一見逆説的に見えるが、この敗北こそはロシアの日本研究を発展させる第一歩となった。欧米の「文明国」にも勝てる、日本の新しいイメージが20世紀初頭頃にロシア内に日本ブームの第一波を呼び起こした。このような新イメージを取り込んで書かれた典型的な例としては、 アレクサンドル・ステパーノフ(1892−1965)の『旅順口』、アレクセイ・ノビコフ・プリボイ(1877−1944)の『ツシマ』とヴァレンチン・ピークリ(1928−1990)の『オキヌさんの物語」という、三つの歴史小説が取り上げられる。それらの代表的な戦争文学作品は、長期間にわたって、ロシア人の「日本の表象」と「戦争の表象」を形成し、それらの表象を反映していた。ソ連時代のロシア戦争文学こそは、公式プロパガンダより、一般国民の世界観を成立させる、もっと強力な手段であったといっても過言ではない。
 今回の発表では、以上の3作品とその日本語訳からの実例に基づいて、ソ連(ロシア)において形成された「日本」の表象について述べてみたいと思う。

時代の響き:詩における恐怖の芸術表現
 ―田村隆一表現主義の詩の平行比較―

陳 セン(北海道大学大学院博士後期課程)
 田村隆一の第一詩集『四千の日と夜』(1956)に収録する散文詩「腐刻画」は、「ドイツの腐刻画でみたある風景」から展開され「黄昏から夜」と「深夜から未明」等、重層する対位法的構成である。その重層する対位法は、「黄昏」と「黎明」という二つの意味がある語「Dämmerung」を表題とする表現主義の重要なアンソロジーMenschheitsdämmerung(『人類の薄明』クルト・ピントゥス編纂、1919)を連想させる。また、田村の詩集『新年の手紙』(1973)に、1970年に発表した表現派の先駆的な画家というムンクの「自画像」から感銘を受け作った作品「虹色の渚から」が収められている。ムンクの作品に表現される「孤独…病気による死、欲望、恐怖…そして、耳をふさぐことによって、人間存在の『叫び』を、この眼で見なければならぬ」(「裸足の青年がひとり」)というファクターは、田村の第一詩集に収める「叫び」や「Nu」(「ぼくの耳は彼女の声を聴かない/ぼくの眼は彼女の声を聞く」)などの作品との類似するところが見られる。以上列挙する点によって田村と表現主義芸術との間に影響関係が存在するという結論が付けないにもかかわらず、両方の類縁性が提示されている。リチャード・シェパードが指摘する通り「表現主義の詩はまた第一次大戦とそれにつづく革命的な運動や衝撃を経験して表現し、それらの意味を伝えようとする詩でもあった。」(「ドイツ表現主義の詩」『モダニズムの叙情詩』)クルト・ピントゥスが『人類の薄明』の序言にこの詩集を「混沌の時代の恐ろしい高貴な記念碑」と称する。田村は20世紀の二つの大戦が人類の「言葉と想像力」を破壊してしまったと示唆して、「この不幸は、戦争の破壊がもたらす物質的な荒廃以上に、現代人の内面生活を惨憺たる廃墟と化せしめたのです」と指摘する。「時代」「戦争」「人類の存在」「恐怖」は表現主義の詩人たちと田村の詩世界の共通するキーワードになっている。本研究は、主として田村隆一の第一詩集に収録する作品と表現主義の代表詩人ゲオルク・トラークルの「グロデーク」(「Grodek」)などの作品を取り上げて、詩における恐怖の芸術表現を主眼し、平行比較を行う。その上で、「恐怖詩学」の限界を論じてみたい。

〈講演〉

明治の女性文学とヨーロッパ美術
 ―大塚楠緒子を中心に―

 
平石典子(筑波大学准教授)
 日本近代文学が「西洋」の芸術の多大な影響の下に発展したことは論を俟たないが、本発表では、日本に紹介されたヨーロッパの絵画を中心とする芸術作品が、明治の女性文学者たちにもたらしたものについて考察したい。
 「美術」という語が日本政府のウィーン万国博覧会出品規約に登場したのは1873(明治6)年だったが、1876年に工部美術学校で始まった西洋美術教育は、紆余曲折を経ながらも1896(明治29)年に東京美術学校の西洋画科新設、同年の白馬会結成へとつながっていく。一方、西洋の絵画や彫刻の紹介、という面で大きな役割を果たしたのは、明治30年代から隆盛する文芸雑誌だった。その中で生まれた与謝野晶子の『みだれ髪』(1901年)は、西洋の絵画に多く示唆された藤島武二の挿画を得て、初めて「詩壇革新の先駆(上田敏)」と評されることになったともいえるだろう。
 本発表で、当時最も西洋美術の近くにいた女性文学者と位置づけたいのは、大塚楠緒子(1875-1910)である。東京控訴院長大塚正男の長女として生まれた楠緒子は、佐佐木弘綱(竹柏園)、信綱のもとで和歌を学び、東京女子師範学校を卒業後は、跡見玉枝や橋本雅邦に絵画の手ほどきも受けていた。1895(明治28)年に結婚した小屋保治は、1896年から4年間の欧州留学を経て東京帝国大学で美学で講じている。このような環境で、楠緒子は西洋の文化や芸術について多くを吸収し、自らの作品の中に反映させていったのである。『晴小袖』(1906年)には12篇の創作と3篇の翻訳が収められていたが、挿入された7葉のヨーロッパ絵画と作品との関係の分析からは、のちに『白樺』において同人たちが絵画に「強い暗示(武者小路実篤)」を求めたこととの共通性も見えてくる。また、『東京朝日新聞』に1908(明治41)年に連載された「空薫」では、George Frederic WattsのPaolo and Francesca(1872-75年)が効果的に使われていた。西洋絵画を媒介として登場人物たちの恋愛感情を高めようとする手法は、夏目漱石三四郎』(1908年)への影響も考えられるが、当時の日本での「パオロとフランチェスカ」ブームを背景に、楠緒子が作品の中で試みていることを明らかにし、その意味を考察してみたい。