◇2016年度 第2回 日本比較文学会北海道研究会プログラム

2017年2月6日公開

  • 日時 2017年3月11日(土)14:30開会
  • 会場 藤女子大学 札幌校舎354教室




〈開会の辞〉          飛ヶ谷美穂子日本比較文学会理事)

■研究発表 14:30-16:00
司会 梶谷 崇(北海道科学大学

水村美苗日本語が亡びるとき』における「酔っぱらい」のエクリチュール
 ―フェティシズムとしての〈日本近代文学〉―

高田知佳(北海道大学大学院修士課程)

琥珀のまたたき』と監禁の終わるとき
 ―小川洋子と『アンネの日記』2―

中村三春(北海道大学
<休憩>

■〈比較文学比較文化 名著読解講座 第14回〉16:15-17:00
司会 村田裕和(北海道教育大学

加藤典洋村上春樹の短編を英語で読む 1979〜2011』講談社、2011年
袁嘉孜(北海道大学大学院修士課程)
〈閉会の辞〉         日本比較文学会北海道支部長 種田和加子(藤女子大学

■臨時総会

→発表要旨は「続きを読む」をクリック
【発表要旨】

〈研究発表〉
水村美苗日本語が亡びるとき』における「酔っぱらい」のエクリチュール
フェティシズムとしての〈日本近代文学〉―

高田知佳(北海道大学大学院修士課程)

 水村美苗の『日本語が亡びるときー英語の世紀の中でー』は、二〇〇八年の刊行当時から現在に至るまで、アカデミアを超えて幅広い読者を得てきた。英語が〈普遍語〉として席巻する時代における〈国語〉の危機と意義とを提起した水村の議論は、日本語に限った問題ではなく広く汎用性を持つ。二〇一五年には The Fall of Language in the Age of Englishとして英訳も出版され、その反響は小さくない。
 とりわけ日本国内においては、「国語教育」における「日本近代文学」の扱い方を論じる著者の姿勢をめぐって賛否両論が巻き起こった。むろん議論の内容の性質として、このような共感や反発が日本人読者から起るのはごく自然なことではあるが、こうした読者の反応を本書の事実確認的な側面からのみ説明することには限界がある。本書を支える問題意識は小説風の書き出しで始まるエッセイ部分に凝縮されているが、その重要な主張部分は、著者である「あたし」がほろ酔い状態で日本文学の凋落を嘆いて見せる場面から滑らかに接続されている。同様にエッセイ部分から繋がっている評論部分でも、一見整理されているようで、その論旨の運びはしばしば蛇行している。議論を巻き起こすような内容を扱うテクストにこそ、読み手の感情に訴えかけるようなレトリックが積極的に選び取られていないか目を凝らす必要があるだろう。
 本発表では、水村美苗の『日本語が亡びるとき』を、英訳版および英訳版と同時並行で改訂された増補版の二つのエディションと照らし合わせつつ、これまで「評論」という先入観のもとに看過されてきたその「本音」と「非公式」の言説が同居する「酔っぱらい」のエクリチュールに改めて注目し、水村が用いるところの〈日本近代文学〉なるものの内実を捉え直したい。

琥珀のまたたき』と監禁の終わるとき
小川洋子と『アンネの日記』2―

中村三春(北海道大学

 死と消滅の危地から救われたテクスト、博物館的に収集されるアイテムへのフェティシズム、監禁と自己監禁、狂気的な技術者、そして幼体成熟(ネオテニー)、これらが、小川洋子が『アンネの日記』から受け継いだコードであり、〈ホロコーストなきホロコースト文学〉としての小川文芸の様式特徴であった。今回は、以前の発表で取り上げた『猫を抱えて象と泳ぐ』(2009)以後、『琥珀のまたたき』(2015)に至る最近の作品に重点を置いて、再び小川のテクスト様式について論じてみたい。
 秘密警察から逃れて隠れ家に隠れる『密やかな結晶』(1994)や、博物館技師が『アンネの日記』を携行する『沈黙博物館』(2000)以外にも、小川にはホロコーストに関わる挿話が見られる作品がある。『刺繍する少女』(1996)所収の「トランジット」で、祖父は強制収容所の生き残りであり、同様の設定は他にも多い。しかし、『琥珀のまたたき』など、直接そのような言及のないテクストにも、小川の『アンネの日記』およびホロコースト文学の体験は認められるのではないだろうか。
 『琥珀のまたたき』は、魔犬を恐れた母によっていわば監禁され、名をオパール琥珀・瑪瑙と改め、六年八カ月の間、家に籠もりきりとなった姉弟の物語である。ここには容易に監禁のモチーフが見出されるが、改名の由来は『こども理科図鑑』であった。宝玉のアイテムは、ここでは記載され読み取られることによって意味を持つ。このような図鑑・事典的なエクリチュールへの偏愛は、『原稿零枚日記』(2010)の奇妙な物象の続出や、『最果てアーケード』(2012)の「百科事典少女」などとも系列をなす。これらは〈アンネ・コード〉とどのように関わるのか。これは、小川文学の起源と現在とを結びつけようとする試みである。

琥珀のまたたき

琥珀のまたたき

比較文学比較文化 名著読解講座 第14回〉
加藤典洋村上春樹の短編を英語で読む 1979〜2011』講談社、2011年
袁嘉孜(北海道大学大学院修士課程)


 評論集『村上春樹の短編を英語で読む 1979〜2011』は、加藤典洋村上春樹の短編作品を英語で読み、留学生を含む学生たちと英語で行った講義を元に、2011年8月に講談社より刊行された。村上春樹の短編作品にアプローチした画期的な村上春樹論である。初出は「群像」2009年9月号から2011年4月号まで連載されたものである。
 本書では、村上春樹の短編作品を発表時期によって、初期、前期、中期、後期の四つに分類し、全80篇のうち、14篇の短編作品を取り上げ、順を追うことで、村上の作品の、ひいては村上自身の、物語や世界に対する態度がどのように変化していったのかを分析する。村上は阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件を契機に、これまで社会に背を向けていたが、現実社会と向き合うようになって、作品の方向性が変わってきたと思われる。要するに「デタッチメントからコミットメント」に転換したのである。ところが、加藤によれば、村上が「デタッチメントからコミットメント」へ転換したわけではなく、むしろ、デタッチメントを徹底した結果、コミットメントにたどり着いたという。
 本書の「序」では、三冊の本からなる日本語の『ねじまき鳥クロニクル』と、一冊の本となった短縮版の英語のThe Wind-Up Bird Chronicleとの違いには、翻訳によって日本語と英語のはざまの問題があると指摘する。その一方、翻訳のテキストを通して、作品がより明らかになることもあると述べる。『ねじまき鳥クロニクル』における「井戸」がその一例である。「井戸」は社会に背を向けるデタッチメントの形象である。このような「井戸」を通して考えれば、村上は「『井戸』を掘って掘って掘って」「デタッチメントの深化の果てに」、井戸の底の方で広がる世界にたどり着き、「コミットメント」につながるようになるという。それ故、村上の作風が「デタッチメントからコミットメント」へ転換したわけではなく、順接であると加藤は主張する。
 今回の「名著読解講座」では、このような順接として現れる「デタッチメントからコミットメント」への変容という加藤の考えから出発し、英訳のテキストと比較しながら、これまでの村上の短編を再考することで『村上春樹の短編を英語で読む 1979-2011』を読み直してみたい。

村上春樹の短編を英語で読む1979~2011

村上春樹の短編を英語で読む1979~2011