◇2018年度 日本比較文学会 北海道大会プログラム




〈開会の辞〉   李 賢羿(小樽商科大学

■研究発表 13:05-13:50

多和田葉子『うろこもち』における空間表象

袁 嘉孜(北海道大学大学院博士後期課程)
司会 平野 葵(北海道大学大学院博士後期課程)

<休憩>

■特別企画 14:00-17:10
《日韓芸術の媒介者たち―近代における文化人の活動を通して―》

■講演 14:00-15:00

思想家としての柳宗悦を読む―近代の超克と民衆工藝(民藝)運動―
講師 韓国世宗大学教授・韓国比較文学会会長 李 秉鎮

司会 井上 貴翔(北海道医療大学
講師紹介 梶谷 崇(北海道科学大学

■パネルディスカッション 15:25-17:10
司会 井上 貴翔(北海道医療大学
〈報告1〉行為としての音楽会―1920年代朝鮮における西洋音楽受容―
梶谷 崇(北海道科学大学) 
〈報告2〉村山知義と朝鮮の演劇人―1920年代後半から1930年代前半にかけて―
韓 然善(小樽商科大学〔非常勤講師〕) 
〈報告3〉モダン・ガール崔承喜をうつす―1930年代日朝におけるメディアの中の植民地表象―
李 賢羿(小樽商科大学 
〈討論〉

〈閉会の辞〉   日本比較文学会北海道支部長 中村 三春(北海道大学

■総会 17:15〜
■懇親会 18:00〜

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【発表要旨】

〈研究発表〉
多和田葉子『うろこもち』における空間表象
袁 嘉孜(北海道大学大学院博士後期課程)
 多和田葉子の作品は、「『半他人』たちの都市と文学」(『新潮』2018年4月号)で述べられているように、「コラージュみたいな方法」を通して「異質なものたちが同じ平面で隣り合わせ」る構造を重要な特徴として持っている。小説『うろこもち』(2010年1月)は、バスルームという限定された室内空間が物語の原点として機能し、そこから出ようとして主人公が数回の移動を繰り返すことによって構造化されている。このような主人公の移動を通して、本作におけるテクスト空間は、物語の進行に従って次第に広がっていくのである。主人公が部屋から出て目的地へ向かうまでの経過は、言葉の反復もしくは主人公の移動と同時に、主人公の見ている事物や景色とともに素早く流動する意識について、細かく描くことによって表現される。その中で、移動と意識が相互に融合し、実際の物理的な移動であるのか、単に意識の中だけでの移動であるのかは明確ではない。このような曖昧さこそが、物語の特徴として捉えられる。
 本作は、最初ドイツ語を用いて書き上げられ、1989年にDas Badと題してドイツで出版された作品である。日本では、2010年に『うろこもち』のタイトルで、日本語訳とドイツ語原文を一冊にまとめて出版されたものである。ドイツ語のタイトルであるDas Badとは「バスルーム」という意味であり、その場所・空間を指す。一方、日本語のタイトル「うろこもち」は、鱗を持っている主人公の身体的特徴を示し、換喩的な表現として主人公そのものを指している。
 本発表は、このようにドイツ語では「空間」、日本語では「主人公」をタイトルとした本作において、ドイツ語と日本語の使い方の違いに注目しつつ、主人公の移動・行動や眼差し、意識の描写を通して、如何に物語を動かすのかを中心に考察する。物語内の成立の基盤となる空間の構造を明らかにした上で、多和田の独特な空間感覚を再考したい。

Das Bad: Roman japanisch-deutsch

Das Bad: Roman japanisch-deutsch

【特別企画趣旨】

司会 井上 貴翔(北海道医療大学
 本企画では、1920年代から30年代の戦間期において、日本と韓国とをまたにかけて活動した芸術家や文化人を取り上げ、彼らが文化の媒介者として、相互の文化交流や混交、流用にどのように関わったのか検討する。工芸、音楽、舞踊、演劇といったジャンルの側面から、日韓双方の文化的繋がりを横断的に俯瞰することで、その多様性と問題を明らかにしたい。

【講演要旨】

思想家としての柳宗悦を読む―近代の超克と民衆工藝(民藝)運動―
韓国世宗大学教授・韓国比較文学会会長 李 秉鎮
 民藝運動創始者である柳宗悦(1889-1961)は、人間の想像力こそが神聖なものであり、想像の世界とは、自我と自然、心と物とが必然的に一つになった時に出現する世界であると主張した。想像力を重視する柳の審美眼は後に民藝理論の機軸および哲学として機能した。
 その背景にはイギリス人の陶芸家バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach,1887-1979)と陶芸家の富本憲吉(1886-1963)の存在がある。この三人は、共通して近代以降の美術と工藝をめぐる、東西の普遍的な美の問題について悩んでいた。当時、工藝の領域は美術と産業(工業)との間で揺れ動いていた。同時に西欧化への反動としての日本伝統が再発見されたのもこの時期である。彼らは、このような時代に東西の媒介者としての認識を持ち、近隣朝鮮と中国の民芸品などへの関心を示しながら日本の伝統に向き合っていくことになる。
 柳らが見出し、定義づけた工藝の美とは、民衆、実用、普通、廉価、大量といった語彙とともに連想される平凡の世界の美である。それは、低廉かつ粗末なものとして認識されてきた生活用品が、用途と伝統に充実しながら、平凡さの中に美的価値を持ち続けているという新しい発見であった。そして、柳の美的価値観には、モノが美しくなる道理と宗教的な摂理は相通じており、そのような道理は正しい社会的概念にも通じるものであった。
 柳らがこのような美的価値を見出した背景には、平凡なモノには美的価値はないのか、そして近世以降、個人の自由が唱えられ宗教に支えられた社会を旧習だと否定することによって近代の人々が失った価値はないのか、という問いがある。そして、彼らは、それらの問いに答える形で、新たな美的価値を見出し、健全な美と正しい社会を回復させるために、日本を中心とした東西古今を超越した普遍的な価値としての民衆工藝の思想を伝えようとしたのである。柳宗悦の普遍的価値としての民衆工藝美は、彼の日本と韓国の間の接触を通して生み出された。そして韓国の民衆工藝が柳の美の普遍的価値を産み出したのだが、同時に韓国の民衆工藝は柳の思想によって新たな価値が付与された。洋の東西を超越した普遍的な美を希求した柳宗悦は、韓国と日本を媒介しながら近代を超える新たな美的価値としての民藝の思想へと至ったのである。本講演においては、このような柳宗悦を始め民藝思想を生み出した人々の、韓国と日本に跨る媒介者としての役割に注目し、考察を加える。

【パネルディスカッション要旨】

〈報告1〉行為としての音楽会―1920年代朝鮮における西洋音楽受容―
梶谷 崇(北海道科学大学) 
 近代日本および朝鮮において洋楽は唱歌、賛美歌、軍歌などの形で受容されたことは多くの先行研究が言及する通りである。西洋の音階やリズムは、教育や軍隊をとおして日本人にも朝鮮人にも定着していった。
 一方芸術としての西洋音楽クラシック音楽)は、それとは別のルートを辿った。それは音楽会を通しての受容である。朝鮮における本格的な音楽会は1916年に行われたピアニスト小倉久子によるものがその嚆矢であると言われる。それ以降、京城を中心に音楽会が頻繁に開催されるようになる。
 クラシック音楽の朝鮮への導入を媒介したのは主に日本への留学経験を持つ知識人層である。彼らは、単に音楽を紹介するだけでなく、その鑑賞の仕方をも導入した。例えばバイオリニスト洪蘭坡(ホン・ナンパ)は、洋楽を芸術作品として、作品や作曲家の精神性までを感受するような聴衆の態度を啓蒙していく。渡辺裕『聴衆の誕生』(1989年、春秋社)によれば、西欧では19世紀半ば頃には音楽を崇高なものとして聴くスタイルが確立されたというが、そのような洋楽を聴く態度は、彼らの啓蒙活動や音楽会活動を通して朝鮮においても定着していった。
 同時に音楽会に行くということは、新しい社会的行為でもあった。例えば、柳兼子(やなぎ・かねこ)の音楽会をモチーフにした閔泰瑗の小説「音楽会」(『廃墟』第2号、1921年)においては、自由恋愛に立ち向かう新女性の煩悶する姿が描かれる。また、柳兼子の京城到着時には、羅螵錫(ナ・ヘソク)や許英粛(ホ・ヨンスク)ら新女性たちが出迎えた。声楽家としての柳兼子は新しい女性像として彼女たちの目に映ったのである。青年知識人たちにとって音楽会とは、単に芸術に触れる場所あるいは機会であるに止まらず、新しい文化を体現する場所でもあった。
 本報告では、柳兼子の音楽会を支えた『東亜日報』や雑誌『廃墟』同人たち、雑誌『創造』『開闢』、あるいは洪蘭坡らの言説を詳しく見てみることを通して、1920年代朝鮮における音楽会をめぐる諸行為の意味を考察したい。

〈報告2〉村山知義と朝鮮の演劇人―1920年代後半から1930年代前半にかけて―
韓 然善(小樽商科大学〔非常勤講師〕)
 1920年代後半から1930年代前半まで日本ではプロレタリア文化運動が全盛期を迎えた。文学、美術、演劇、映画など様々な芸術分野を中心とした団体が結成され、短期間ではあるものの、多くの文化人が日本プロレタリア文化連盟に参加した。当時日本に留学していた朝鮮人もこのプロレタリア文化運動に参加し、特に朝鮮人留学生は、プロレタリア演劇運動で活躍した。この時期の朝鮮人留学生の演劇運動には、朝鮮プロレタリア芸術家同盟を中心とした演劇運動だけでなく、より近代的な演劇を目指した新劇運動もある。しかしながら、新劇運動をメインとした朝鮮人らも、当時プロレタリア演劇運動と関わっており、日本の進歩的な演劇運動と呼ばれている築地小劇場に集まり、日本の演劇人や文学者と交流をしていた。つまり1920年代後半から繰り広げられた「在日朝鮮人の演劇運動」は日本人と深く関わっていたといえよう。
 朝鮮人留学生の演劇活動において、もっとも関わりのある人物といえば、村山知義である。これまで村山と朝鮮の演劇人との交流は、演劇『春香伝』と関わる1930年代後半の活動が注目されてきた。だが、村山は1920年代後半から多くの朝鮮の演劇人と交流し、当時発表された小説、戯曲などにも朝鮮人を登場させ、朝鮮への関心を持ち続けていた。もちろん彼の一部の活動を確認するだけでは、村山と朝鮮人との交流の全貌は把握しきれない。しかし、村山の朝鮮文化への関心や朝鮮認識の全体像を見る際に、1930年代前後の交流は少し見ておくべきである。
 1930年代前後は朝鮮人留学生が朝鮮内よりも少し自由に活動できた時期であり、新劇からやがてプロレタリア演劇運動に参加した村山の活動が目立つ時期でもある。また村山と朝鮮の演劇人との関係は単に植民地/帝国という固定化された関係に収斂されない多様性や葛藤が内在していたと考えられる。本発表では、当時村山が雑誌などで発表した文章及び、彼と関係のある朝鮮人の演目に少し触れる。そして当時村山と朝鮮の演劇人がどのように交流をし、その交流が互いにどのような影響を与えたのかを考察したい。

〈報告3〉モダン・ガール崔承喜をうつす―1930年代日朝におけるメディアの中の植民地文化表象―
李 賢羿(小樽商科大学 
 崔承喜は戦前日本で3本の映画に出演している。最初の出演は1934年9月に撮影が始まり1935年1月13日に封切られた『百万人の合唱』である。崔承喜はこの映画で、幼稚園の先生として出演し、スクリーンデビューを果たした。それによって舞踊家のみならず、女優としての可能性を切り開きつつ、昭和の映画界に飛び込んだ。次に初めて主演を務めた『半島の舞姫』は、1935年8月ごろ撮影が始まり、翌1936年4月1日に公開された。この作品は、崔承喜の「自伝的」な内容で日本と朝鮮を舞台にして撮影された。最後に、世界公演の興行の一環として撮影したといわれる『大金剛山の譜』がある。これは、1937年10月から11月の間、主に朝鮮を舞台に撮影され、崔承喜がアメリカに発った後の1938年1月21日に公開された。
 こうした崔承喜の映画出演は、崔承喜が二度目の石井漠舞踊団入団以来、ますます高まっていくその人気や、舞踊家としての再起を表す指標となっている。なかでも『半島の舞姫』は、崔承喜自らの体験を基に描かれた半ば自伝的な内容で、崔承喜という植民地出身の舞踊家が、舞踊の枠を越え、日本の大衆スターとして活躍していく上で大きな役割を果たすことになった。この映画は崔承喜の朝鮮舞踊を美しく描き上げ、女優として、広告モデルとして、さらに朝鮮舞踊を踊る舞踊家としてそのイメージを日本全国に広めることとなる。
 朝鮮においては、新女性のシンボルとして崔承喜のファッション(断髪、洋装、ハイヒールなど)や当時新しい美の象徴とされた手足の長い西欧的な身体、さらに彼女の恋愛や結婚にいたるまでの新たな価値観の紹介など、様々な角度で崔承喜の「近代性」が雑誌や新聞、そして広告を通して広まった。
 そこで本発表では日本のみならず、朝鮮において崔承喜が表していた「近代性」に注目したい。日本や朝鮮で活躍していた崔承喜が表象する「近代性」、いわゆる「昭和モダン」がいかなる形で日本や朝鮮において表れていたのかを考察する。この議論の題材として映画『半島の舞姫』をはじめ、日本のモダニズム写真家たちの崔承喜写真、そしてそ雑誌や広告掲載イメージなどを分析しながら、「モダン・ガール崔承喜」の日朝における植民地文化表象の一端を追究する。